わたしの戦争体験から
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/08/01/ 00:00]
すでに戦後62年、戦争は遠くなった。でも、暑い夏がやってくると思い出す。わたしは少年時代を戦時下の長崎で過ごした。小学3年でシナ事変が始まり、中学1年のとき太平洋戦争が勃発、旧制中学を卒業して兵隊に取られる寸前、原爆が落ちて戦争が終わった。
わたしの戦争体験は学徒動員と原爆に要約される。中学3年ごろから散発的な動員が始まり、4年生になると完全に学業を離れて三菱長崎造船所で働いた。造船所ではすでに戦艦武蔵の建造を終え、大小の艦船、標準型輸送船の建造などフル操業、市内の男子中学生のほか女子中学生、他県からの女子挺身隊員、徴用された朝鮮人らが動員されており、港外の川南造船所では米軍捕虜も働かされていた。そして45年8月9日の原爆投下、長崎の町の半分が一瞬にして破壊され、焦土と化した。わたしは大浦天主堂横の神学校にいて無事だったが、一学年下の神学生数人は動員中、原爆中心地近くで被爆し、うち神学校に戻って亡くなった2人を、仲間とこの手で墓穴を掘り、埋葬した。
戦争終結に際しては一末の悔しさと弾けるような開放感を体験した。国に尽くすのは国民として信者の義務と心得ていたから、負ければ悔しさが残る。しかしそれより、戦争の重圧と死の危険、教会に対する軍部等の弾圧から開放された喜びは実にさわやかだった。
戦後は戦争の反省と世界平和への取り組みの時期である。戦時中は言論統制や戦時教育のせいか、正しい戦争をしているという実感や義務感と共に、祖国の勝利と世界平和を祈るという複雑な心境にあった。しかし、終戦と共に戦争の実態が少しずつ理解されるようになると、戦争の主原因がアジア各地を侵略して取得した権益を守るためであったと知る。そして、いわゆる東京裁判には勝者が国際法を勝手に解釈して敗者を裁くという矛盾があったとしても、そこで言われた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」は、戦争の罪悪性についての新しい視点を開くものであった。加えて、核兵器の出現により、理由の如何を問わず、戦争は当事国を始め世界の破滅を招くものとして、これを全面否定せざるを得なくなった。
戦争を否定する感情や確信と共に世界平和への使命感もまた日増しに強まる。ヨハネ23世は言う。「あらゆる時代の人々が切望して止まない地上の平和は、神の定めた秩序を全面的に尊重してはじめて、これを築き、固めることができる」(『地上の平和』)。従って、真の平和を築くためには「心の悔い改め」から始めなければならない。戦後「一億総懺悔」という言葉が聞かれたが、わたしは本気でそれを受け入れた。その真意は戦争に負けたからではなく、すべて戦争は究極のところ神の定めた秩序を破る人類の罪の結果であり、罪の連帯の中で敵味方の違いを越え、悔い改めて神のゆるしを請わなければならないという信仰による。
悔い改めと共に、わたしの平和運動は福音宣教それ自体にある。キリストの福音は「平和の福音」であり、「心の平和」から「地上の平和」へ、そして終には終末における神の国の完成と「永久の平和」を目指すものである。「平和は単なる戦争の不在ではなく」(『現代世界憲章』78)、神が定めた倫理的秩序の確立にあると確信し、またそのための道はキリストの外にないと信じるわたしにとって、戦争を放棄する憲法9条は貴重だが、平和を約束しないから、そこに政治の限界、人間の限界を見ざるを得ない。だから、どうしても神からのゆるしと和解の恵みが必要なのである。そしてこの恵みはキリストから来る。復活の日の夜、キリストは弟子たちに言われた。「あなたがたに平和があるように!」(ルカ24,36)。