存在か所有か

存在か所有か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/08/15/ 00:00]

人類の未来はわれわれの道徳的選択にかかっている(ヨハネ・パウロ2世)

前教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年2月25日、世界最初の原爆被災地広島を訪れ、平和公園における「平和アピール」の後、隣接の広島市公会堂で国連大学と広島市共催の「記念講演」に臨まれた。62年目の終戦記念日を迎えるに当たり、わたしはあらためてこの記念講演を読み直して見て、その場にいて聞いたとき以上の感動と衝撃を覚えた。また、この講演で指摘された事柄が今日にもそのまま通じることを強く感じた。

教皇は、広島及び長崎に原爆が投下された悲劇の重大性をまず想起した。すなわち、核兵器は現代の科学・技術が生んだ「恐るべき発見』であり、この恐ろしい兵器が現実に、はじめて軍事目的に使用されたことは、「将来にわたって人類に付きまとう難問であり、人類の良心を揺さぶる道徳的危機である」と強調された。

また、今日の科学・技術の成果は、「神が授けた人類の創造性の驚異の産物であるが」、「それは人間の進歩のためにも、その堕落のためにも利用することができる」ものであり、従って、「人類の未来は、かつてなく、われわれの道徳的選択にかかっている」。そして、「この選択は、知性、科学、文化の全資源を、平和と新しい社会の建設に奉仕させるという選択であって、その新しい社会とは、兄弟が殺し合う戦争の原因を根絶する社会である」と断言された。しかし、「推計によれば、全世界の研究者の約半数が軍事目的のために雇用されており、人類が軍備に投じる費用は開発に投じる費用よりはるかに大きく、一人の兵士の装備は一人の子どもの教育費よりはるかに高価である」と興味ある事実も示された。

次に、道徳的判断を誤らせる三つの誘惑についてはこう分析された。①それ自体が目的化した、技術の発達を追求する誘惑であって、技術的に可能なことは必ず実行するのが義務であるとする、道徳を無視する誘惑、②技術の発達を、人類全体の共通の利益を無視して、利潤と経済的拡張の論理に基づく経済的有用性に従属させる誘惑、③軍事目的など、技術を力の追求あるいは維持に従属させようとする誘惑である。これらの誘惑に打ち克って正しい道徳的判断をするためには、「技術に対する倫理の優位、事物に対する人間の優位、物質に対する精神の優位を確信しなければならないと結論付けられた。

あの記念講演は、国連大学の関係者など知識層に宛てた講演であるだけに、専門的で格調高いものであり、簡単に要約できるものではないが、あえてもう一つ付け加えるとしたら、「所有』に対する「存在」の優位について述べておこう。教皇は講演の中で前年のユネスコにおける講演の一部を次のように引用された。

「文化は人間の『実存』、『存在』の具体的形態であります・・・。文化とは、それを通じて人間が、人間として、より人間的になり、より人間的で『あり』、『存在』への接近をより確実にするものであります。人が何であるかと、何を持っているかとの基本的な差異、存在と所有との基本的な差異も、その基礎をここに見出すのであります。・・・人が『所有するもの』は、すべて文化にとって重要であり、文化を創造する一つの要因でありますが、ただしそれは、人がその『所有するもの』を通じて、同時に人間としてより全面的に『存在』し、その実存の全次元において、その人間性を特徴づけるすべてにおいて、より全面的に人間となる限りにおいてのみ言えることであります」。

要するに、「人間の価値はその持ち物によるのではなく、その人自体によるのである」(現代世界憲章35)ということである。さらに言えば、「万物の存在にこめられている神の呼びかけにこたえてこそ、人間は自らの超越的尊厳を自覚する。すべての人が一人ひとり、この応答を行わなければならない。これこそ、その人の人間性の極致である」(回勅『新しい課題』13)。あの聖フランシスコ・ザビエルが、自らの大回心のインスピレーションとなり、また、植民地での利潤追求に走るポルトガル王ジョアン3世への警鐘として書き送った聖書の言葉がここに思い出される。

「たとえ全世界を手に入れたとしても、自分の命を失ったならば、何の益になろうか」(マタイ16、26)。