韓国の太陽政策をめぐって

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 韓国の太陽政策をめぐって

韓国の太陽政策をめぐって

カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/09/15/ 00:00]

―拉致被害対策はこれでよいのか。ゆるしと和解が先決では―

韓国と北朝鮮の南北首脳会談が11月に延期されたと聞いて残念に思った。先代の金大中大統領の決断によって7年前に開催された第一回南北首脳会談は、まじめなカトリック信者といわれる金大統領の信仰がなさしめた決断として、わたしはこれを高く評価してきた。キリストは「敵を愛しなさい」と命じて次のように述べている。

「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられたのを、あなたがたは聞いている。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたがたが天におられる父の子であることを示すためである。天の父は悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、また、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたになんの報いがあろうか。徴税人(訳注・悪徳徴税人の意)でさえも、そうするではないか。また、自分の兄弟にだけ挨拶したからといって、何か特別なことをしたのだろうか。異邦人(訳注:信仰を異にする人)でさえも、そうするではないか。だから、天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5,43-48)。

対北朝鮮融和政策は、例のイソップ物語の「北風と太陽」にちなんで「太陽政策」とも言われるが、分断された国として祖国統一への願いがあるとはいえ、韓国の柔軟な融和政策を見るにつけ、拉致被害問題の解決のためには人道支援をも拒絶するという、北朝鮮に対するわが国の強硬な対決姿勢には疑問に思うことが多い。拉致被害者家族の苦衷はわかりすぎるほどわかるし、決して同情を惜しむものではない。しかし、必要と思われる人道支援までもいっさい拒絶するというのは尋常ではない。まるで「北風」そのものではないか。この頑固な対決姿勢は、拉致被害問題の解決を永久に先延ばしする恐れがある。

ところで、国際問題の解決はすなわち失われた国際正義の回復であり、正義に基づく秩序の回復に他ならないが、そのための手段はおよそ三つ考えられる。一つは武力による解決策である。しかし、世界中の国が独立して領土が確定し、領土拡張や植民地獲得などの戦争目的が失われた今、国家間の戦争はおよそ意味を失い、第二次大戦後頻発する大国がテロ国家などに武力制裁を加え、これに特定の政治体制を押し付ける戦争も、アフガンやイラクに見られるように、憎しみや復讐の連鎖を生むだけで解決をさらに困難にしている。平和や民主主義のための戦争などナンセンスである。

第二の手段は「経済封鎖」などの経済制裁であって、現在も幾つかの国で見られるが、武力を使わないから正当化されるというのは早計である。経済制裁はその国民をさまざまな苦境に陥れる極めて非人道的な手段でしかなく、悪くすれば、暴発して悲惨な戦争やテロの引き金ともなりうる。

国際紛争解決のための第三の、そしてもっとも人間に相応しい解決手段は、言うまでもなく平和的な手段であって、いわゆる話し合いである。しかし、それには前提がある。つまり、話し合いが正義の回復の有効な手段になりうるには「ゆるしと和解」が先決であって、過失によって失われた相互関係は、仲直りしなければ、つまり敵対したままでは、完全に修復することはできないからである。われわれの経験が示すとおりで、個人の間でも主権国家の間でも同様である。「平和は愛の実り」(現代世界憲章78)、つまり、「ゆるす愛」、「無償で与える愛」の実りでもある。

だから、拉致問題の場合、北朝鮮側が拉致の事実を自ら認め、わが国の小泉総理が訪朝し、両首脳の話し合いによって一部拉致被害者の帰国も成ったのであるが、なぜこの平和的な対話路線を捨て、相手の非だけを責めるようになったのだろう。ひょっとしたら、かつての「仇討ち文化」の復活か、植民地支配時代の優越感の再現かも知れないが、この文明開化の世の中では、過去の植民地支配や拉致問題など互いの過失を詫びて心からゆるし合い、平和共生の道を開くべきではないか。まずは国家も民間も、北朝鮮への必要な人道支援から始めたらどうだろう。

「他人に対する赦しは、単に新しい人間関係に入るための前提条件であるばかりでなく、それを構成する基本的要素の一つである」(聖書思想事典)。