「教育バウチャー制度」を問う
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/11/01/ 00:00]
市場原理主義に基づいて教育事業に競争原理を取り入れるこの制度、果たして大丈夫だろうか
ホームページを開いてちょうど一年。ここで選んだテーマも同じ教育問題になった。あのあと教育基本法と関連法案が可決され、教育再生会議で議論が展開されたが、ほとんどわたしの心に残るものはない。唯一つ気になったのは「教育バウチャー制度」問題である。政権交替で立ち消えになったかと思ったが、先日のニュースでは、立ち消えどころか論議を進めるという。
1)教育バウチャー制度の心配
この制度はアメリカに始まったもののようだが、まだ議論中だから具体的なその全貌は分からない。ただ、これまでの論議を見る限り、市場原理主義に基づいて教育事業に競争原理を取り入れ、一般企業の参入も認めるという。とすれば、学校間にも地域間にも必然的に格差をもたらし、国から教育的サービスを平等に受けるという国民の共通善が脅かされる恐れがある。格差を埋める公権が格差を助長することは許されないだろう。一方、教育バーチャー制度は学校選択の自由を柱としているが、教育事業に競争原理を持ちこむことは、効率的な成績のみが追及されて全人教育の調和が崩れ、教育の偏りや質の低下をもたらすことが心配される。また、われわれが先に主張した「学校選択の自由(権利)」の真意が見失われて、より有利な就職などの功利的な面だけが選択の基準になる恐れも出てこよう。
2)「学校選択の自由(権利)」の真意
前にも述べたとおり、教会が主張する学校選択の自由(権利)は、信仰・道徳に関する保護者の思想信条に合致した学校を、学費の二重負担などの不利な制約なしに自由に選ぶ権利のことである。従って、学校選択に関する保護者の権利は、その思想信条に叶う学校が実際に存在するという、いわゆる複数の選択肢の問題があり、同時に、具体的な選択肢の識別が重要な鍵となる。ここにその識別のための象徴的な要件を二つ提示しておきたい。
①進化論の問題
信仰面においては何よりも進化論の問題がある。一昨年秋、米国東部の公立学校において、進化論と共に天地創造論を教えるべきか否かについて大論争があった。詳しい背景は分からないが、要するに、進化論は容易に無神論を助長し、その結果、人間と世界がどこから来てどこへ行くかという、人生の究極の意味と目的を知る根拠が見失われる恐れがあるということである。進化論の欠陥を補い、教育が目指すべき全人的な人格教育を行うために不可欠の天地創造論が教えられることの重要性が問われたのである。
この問題は特定の宗教教育ができず、進化論しか教えないわが国の公立学校にそのまま当てはまる。従って、両親が望む宗教・道徳教育が公立学校に期待できないとすれば、それを家庭教育や教会学校などで補うしか道はないが、もしそこに、すべての教科と共に宗教・道徳教育を加えた全人教育をする私立学校があれば、これに越したことはないわけだ。
②性教育の問題
倫理面における学校選択の重要な基準は正しい性教育が行われているかどうかである。かつて家庭委員会で調査したことであるが、わが国の公立学校の性教育はおおむね性器教育であると同時に避妊教育であり、避妊に失敗すれば人工妊娠中絶という方法もあると教える、極めて杜撰なもののようである。ある名の知れた教育学者は、援助交際は自己決定権の行使である限り評価すべきだと言ったとかいう話もある。人格と一体である性を快楽の道具、あるいは金儲けの手段ないし商品とすることは絶対に許されない。
人間ははじめから男と女に造られており、結婚や家庭においても、国家や教会においても、すべて人間共同体のあるところ、女性と男性、母性と父性の相補性の中で世界は動いている。だから、男女間の正常な関係が崩れれば人間社会全体が崩れてしまう。人格の尊厳に根ざした性別の意味とあり方を教え、そのために欲求をコントロールする意思の力を鍛える真の性教育が極めて重要なのである。すべての青少年が教育を受ける権利があることを教える教会は、性教育を重視して次のように述べる。「かれらは、成長するにつれて、積極的で賢明な性教育を受けなければならない」(第2バチカン公会議『キリスト教的教育に関する宣言』1)。性教育の如何は学校選択における不可欠の要件である。