医療の限界と人間の希望
カテゴリー カトリック時評 公開 [2007/12/01/ 00:00]
身体の医療は重要であるが、そこには様々な制約や限界がある。しかし、キリスト教信仰は「究極の健康」と「いのちの開花・充満」を約束する
日本カトリック看護協会第49回全国大会が去る11月9日、鹿児島純心女子大学を会場に一泊二日の日程で開催された。わたしは依頼されて、開会式のあと全国各地からの参加者150人を前に「カトリックナースの使命」と題して一時間の講演を行った。26年前の1981年、名古屋で開催された第23回全国大会でも同じテーマで講演をしたのであるが、今回はあらためて究極のカトリック医療について話した。講演を終わった今、ほっとすると同時に、医療の限界や希望についてあらためて思い巡らしている。
現代の医療はものすごい勢いで進んでおり、健康の予防や治療、そしてその増進に偉大な貢献をしているが、しかし、医療の世界にはその限界も示されている。たとえば、医療に携わる者の怠慢や欲望によって医療ミスや薬害が頻発し、世界的に見れば政治や医療行政の不備によってさまざまな医療格差も生じている。何よりも象徴的な限界は、医学が人間の死を治療できず、これを止められないということである。そんなことは当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、しかし、そんなに簡単に割り切れるものではない。
死は人間の破壊である。死は人間を構成する身体と霊魂という本質的な構成要素が分解され人間でなくなることである。「いつまでも幸せに生き続けたい」という人間本来の根本願望は死によって無残にも打ち砕かれるのである。したがって、死の問題を解決することは昔からの人類の悲願であり、哲学や宗教をはじめ、あらゆる学問や労働などすべての人間活動はまさに生きるための必死の努力であったのである。にもかかわらず、人間の最後の頼みである医療の限界は多くの人を絶望に追い込む。
医学はなぜ人間の死を止められないか。第一の理由は、医学が人間の「生命の起源」と「死の起源」とを知り得ないからである。いつかもこの欄で述べたことであるが、分子生物学や進化論は生命の神秘が解明されたと大見得を張っているが、そんなことはない。死は依然として人間を支配している。これに対して、キリスト教は神の啓示に照らされて、人のいのちは神の創造の賜物である半面、一切の病気や死の原因人間、すなわちアダムの罪、いわゆる原罪にあることを教える。同時に、キリスト教は人間となった神の子キリストの死と復活、いわゆる過越の秘義によって罪とその結果である死が滅ぼされ、からだの復活と永遠のいのちへの道が開かれたことを教える。
キリストは言われる。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は死んでも生きる」(ヨハネ11,25)。そしてキリストは死んで3日目に復活してそのことばを証明し、保証した。ヨハネ・パウロ2世は、死んで復活された「キリストにおいて第一の創造は完成し、・・・同時にそれは人類の「新しい創造の始まり」であると述べられた(使徒的書簡『主の日』1)。つまり、人間の人類を破滅に陥れたその罪とその結果はキリストの死と復活の秘義によって完全に修復され、終末におけるキリストの再臨とからだの復活によって天地創造の究極の目的は達せられて世界は完成するのである。だから、たとえ人間の医療活動に限界があり、死を克服できなかったとしても、キリストによって人間の真の、そして究極の健康、すなわちいのちの開花と充満が始まるのである。そういう意味で、限界のある医療活動も、キリスト教信仰と結ばれるとき、医療界にも患者たちの心の中にも確かな希望の灯が点る。だから、たとえば、ガンの告知など恐れることはない。
従って、第2バチカン公会議は言う。「苦しみと死の謎は、キリストにより、キリストにおいてこそ解明されるが、キリストの福音の外にあっては、われわれを押しつぶしてしまう。キリストは復活し、その死をもって死を破壊し、われわれに生命を与えた」(現代世界憲章22)。