岐路に立つマスメディア
カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/05/15/ 00:00]
「利己主義と奉仕の岐路に立つメディア、他者と分かち合う真実を求めて」。カトリック教会は毎年春に「世界広報の日」を実施しているが、これは今年度広報の日の教皇のメッセージのテーマである。
カトリック教会は第2バチカン公会議の勧告に基づき、「広報機関による教会の多様な使徒職がいっそう強化されるために」、毎年一度「世界広報の日」を実施してきた(『広報機関に関する教令』1963年12月4日公布)。ここに広報機関と訳されているが、ラテン語原文では” Instrumenta Communicationis Socialis”、直訳すれば「社会的コミュニケーションの道具」である。カトリック教会は、無名の大衆を連想させるマス(Mass)を避けて、代わりに、主体性を持つ人格(Persona)としての人間相互の意思や情報の広範な伝達手段であることを強調する意味で『社会的』(Socialis)を用いる。しかし、実際にはこの公式の表現のほかに、世間一般に合わせて簡潔なマスメディアやマスコミを使用することも多い。またInstrumenta(道具)の代わりに「Media」(媒体)を使用することもある。
教会では、社会的コミュニケーションの手段は広い意味で使用される。新聞、雑誌、書籍、ラヂオ、テレビなどのほか、映画や演劇、さらにはDVDやCD などのグループメディアを含めて考えている。現在ではインターネットはもちろんだが、Eメールや携帯電話も不特定多数とのコミュニケーションの媒体になっていることもあるようだ。これらのメディアは、多くの人にとってなくてはならない伝達手段であって、人々の暮らしや生き方に重大な影響を与えていることは想像に難くない。もちろん、一人の人間がアクセスできる情報量は限られてはいるが、しかし、社会全体がその影響下におかれていることは間違いない。
今年の世界広報の日メッセージの中で教皇は、「メディアは利己主義か奉仕かの岐路に立っている」と言われる。換言すれば、メディアは人を生かしたり殺したりする諸刃の剣であり、人間に幸せをもたらす「真実」を分かち合うために奉仕することもできるが、真実を曲げ、ひいては人生を誤らせる利己主義の道具となることもできる。従って、送り手にも受け手にも良心に従って正しく情報を識別し選択するモラルが必要だという指摘である。
さて、岐路に立つメディアの中で利己・利他のどちらが優勢なのだろうか。表面的に見れば後者のようにも見える。世界各地の日々の情報をはじめ、教養や娯楽、そして生活に関する豊富な情報は現代生活に欠かせなくなっており、多くの人がその恩恵に浴している。しかし、人生の真実、つまり人生の究極の意味や目的を左右する思想や価値観について見るならば、現今のメディアは基本的にはあまりにも経済や快楽優先の現世的、物質主義的な傾向を帯びているように思う。よほど気をつけなければ、人生に真の目的と至福への希望をもたらす情報を見つけて利用することができない。多様な事実は伝達されても、人間と世界に関する真実は隠されたままのように見える。
では、どうすれば岐路に立つメディアを浄化し刷新することができるのだろうか。この問いに答えるのは決して容易ではない。ただ言えることは、送り手と受け手のモラル(情報倫理)の覚醒に訴えるしかないのではなかろうか。言論の自由(権利)への意識が高まっている現在、権力がメディアを規制できるのは明らかに公共の秩序に反し、倫理的に反する有害メディアのみであって、思想信条に関するかぎり、報道各社の自主規制はもとより、最終的には各人の自覚に待つほかないからである。
従って、差し当たってわれわれにできることは、これまでも教会が強調してきたように、受け手であるわれわれが届けられる情報を識別し、選択することであろう。同時に、受け手の意見をどんどん送り手に示して改善を促すことであろう。受け手の反応は多分に送り手を規制できるからである。もう一つは、青少年の教育に「メディア教育」をしっかり取り入れることであろう。飛び交う情報の中には神の賜物としての「よい情報」と悪魔の使いである「悪い情報」があることを具体的に明らかにしながら、よい情報を選択し活用することの大切さやすばらしさを幼いときから教え込む知恵と情熱を持つよう、両親や教師たちに勧告したい。子供たちを有害サイトから守る運動が起こっていることはそれなりに評価できるが、規制だけでは教育の成果を期待することはできないからである。