死刑制度の存廃をめぐって

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死刑制度の存廃をめぐって

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/06/15/ 00:00]

来年5月に始まる裁判員制度を前に、わが国における死刑制度の存廃が改めて問われているが、圧倒的多数の死刑存続論にかんがみ、仮釈放のない「終身刑」を創設する超党派の動きが加速しているという(朝日新聞6月5日)。では、カトリック教会は死刑制度について何を指摘しているのだろうか。

教会は死刑制度の問題を「殺してはならない」という神の第五戒の中で、「正当防衛」に関連して取り扱っている(『カトリック教会のカテキズム』2263-2267)。そして故ヨハネ・パウロ2世教皇はその回勅『いのちの福音』の中で死刑の問題を取り上げている(56)。この

「時の経過の中で、教会の伝統はつねに一貫して、「殺してはならない」というおきてが有する絶対的で不変の価値を教え続けてきました。・・神のかたどりを帯びる人間を殺害するのは、特別に重大な罪だからです。神だけがいのちの主人公なのです」(回勅54-55)。しかし、このことの中で、抜き差しならぬディレンマが起きる場合が想定される。自分自身のいのちを守る権利と他人のいのちを損なってはならないという義務との両立が実際上難しい「正当防衛」の場合である。

個人の場合は、自分のいのちを守る正当防衛の権利はあるが、必ずしもそれを果たす義務はない。「自己防衛の権利を放棄することは、福音の真福の教えの精神に従って(マタイ5,38-40参照)、自己への愛を徹底した自己犠牲(奉献)へと深め、変貌させる英雄的な愛によって可能となるのです。この自己犠牲の最高の模範は主イエス自身です」(回勅55)とあるとおりだ。

しかし、他者のいのちに対して責任を持つ者においては、事情が異なる。「正当防衛は単に権利であるばかりでなく、他人の生命に責任を持つ者にとっては重大な義務となります。共通善を防衛するには、不正な侵犯者の有害行為を封じる必要があります。合法的な権威を持つ者には、その責任上、自分の責任下にある市民共同体を侵犯者から守るためには武力さえも行使する権利があります」(カテキズム2265)。従って、「死刑の問題は、このような文脈で考察すべきです」と回勅56は言う。そしてカテキズムは続ける。「合法的な公権は、違反の重さに比例した罰を科す権利と義務を持っています。処罰の第一の目的は、違反行為によってもたらされた混乱を正すことです。違反者側がこれを喜んで受け入れるとき、償いの効果は達せられます。処罰にはまた、公共の秩序を守り市民の安全を擁護することに加えて、加療するという目的があります。処罰は、可能な限り、違反者側の矯正に役立つものでなければなりません」(2266)。

このように、教会は死刑制度を基本的には容認しているが、しかし、必ずしも必要不可欠とは見ていない。カテキズム2267は、「実際、今日では、国家が犯罪を効果的に防ぎ、償いの機会を罪びとから決定的に取り上げることなしに、罪びとにそれ以上罪を犯させないとすることが可能になってきたので、『皆無ではないにしても、非常に稀なことになりました』(回勅56)」と述べ、国家としての仕組みが一応完備した先進国においては、死刑判決なしに「公共の秩序や市民の安全」を守る可能性の高いことを示している。これは、死刑制度の廃止を奨励しているものと見てよい。

ただ、わが国においては、死刑制度の廃止に至るには越えるべき二つの点があるように見受けられる。一つは、最近の死刑判決例から見ても、「更正の可能性が認められない」という判断が示されていることである。しかし、この判断は早計過ぎるのではないかと思う。人間は死ぬまで回心と生活改善の可能性が続くのであり、死刑はかえってその可能性を奪うことになるからである。

もう一つの問題は、判決に情が絡む可能性の高いことである。実際、被害家族の恨みつらみを忖度して死刑判決に至る例は皆無とはいえないようで、わが国における死刑制度存続論の多くがここにその根拠を置いていると見てよい。しかし、人間の裁判における処罰の目的は報復ではなく、犯罪者の償いと矯正のためである。聖書には「善をもって悪に勝て」(ロマ12,21)という言葉もある。

従って、市民の安全が保障される限り、死刑を避け、凶悪犯にも更正のときを与えるのが理性の命じるところ(良心)であり、神のみ旨であろう。