原爆から63年、核廃絶の願いは
カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/07/15/ 00:00]
広島、長崎の原爆記念日が近づいた。すでに核兵器廃絶や平和の祈りの集いの計画や案内が届き始めた。しかし、原爆投下から63年、核兵器廃絶の願いは風化し、その叫びは空しく響いてはいないか。このあたりでもう一度考えてみたい。
世界の関心は、いま、北朝鮮の核開発全面停止がいつ実現するか否かに注がれている。イランの核開発の問題も西欧を中心に水掛け論が進んでいるが、われわれ日本人にはなんだか遠い世界のようで、なじみが薄い。いずれにせよ、核保有国の問題は忘れられ、焦点は核拡散の防止に絞られているかに見える。東西冷戦が終結して20年、核抑止力が世界的な常識となり、力による世界平和が固定していることを示している。果たしてこれでよいのであろうか。
確かに現代世界は核戦争の危機を脱したかに見える。核兵器を使用する状況にはないということであろう。しかし、イラクやパレスチナ問題など国際紛争の種は尽きず、アジアやアフリカなど多くの国々で国内紛争はあとを絶たない。加えて、原油や食糧の価格高騰によって生活を脅かされる国々は世界中に広がっている。ローマの古いことわざに”Homo homini lupus”(人間は人間にとって狼である)というのがあるが、新自由主義のイデオロギーのもと、利潤追求至上主義が蔓延して、あらゆる手練手管を利用して財貨の奪い合いが世界を覆っている。
こうした状況下にある世界は本当に平和であると言えるのであろうか。カトリック教会は半世紀も前に断言している。
「平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生ずるものでもない」(第2バチカン公会議『現代世界憲章』78)。
現教皇ベネディクト16世は今年元日の平和メッセージ『人類という家族―平和の共同体』
の中で指摘しておられる。
「男と女の結婚に基づく「いのちと愛の親密な交わり」である自然な家庭は、「個人と社会が人間らしくなる第一の場」であり、「生命と愛のゆりかご」です。それゆえ家庭を第一の自然な社会と定義することは適切です。家庭は「人間人格の生命の基盤となるよう、神が定めた制度であり、あらゆる社会秩序の原型です」『平和の非メッセージ』2」。
周知の通り、正式の結婚に始まる家庭は愛といのちの自然な人間共同体であり、その特徴は次のように表現することができる。
①家庭は、一人の家族も除外しない家族全員参加の共同体であり、
②相互に異なる年齢や立場や役割に立ちながら、無償で助け合う共同体であり、
③基本的には財産を共有して分かち合い、みんな満ち足りる共同体である。
ベネディクト16世は、このような家庭の姿が人類家族の原型であり、真の世界平和を確立するためには、人類全体が一つの家族のように助け合い、分かち合って生きることの必要性を指摘したのである。
ただ、人類が一つの家族であるという確信に至るには二つの条件がある。すなわち、一つは、人類を兄弟姉妹として一つに結ぶ究極の原理、すなわち天地創造の神を認めることである。天地創造の初め、神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1,26)。父と子と聖霊からなる三位一体の交わりを生きる神に似せて造られた人類は、もともと一つの家族共同体として造られたのである。
しかし、罪によってばらばらになった人類がそこに戻るためには、もう一つの条件が要る。すなわち、人類の一致を乱した罪とその結果としての死を滅ぼし、信じる人々を互いに兄弟姉妹として共同の父なる創造主のもとに一つに集めるイエズス・キリストを信じることである。ヨハネ福音書は証言する。「(イエズスの死は)散らばっている神の子たちを一つに集めるためである」(ヨハネ11,52)。聖パウロは言う。「神のご意志に秘められていた神秘(計画)とは、・・すべてのものをキリストを頭として一つに結び合わせることである」(エフェゾ1,10)。
今人類は甚だしい奪い合いの混乱の中にいる。しかし、人類には希望がある。キリストのあがないを通して、人類一致への道が開かれているからである。その実現の日を待ち望んで、人類は今、陣痛の苦しみの中にある。やがて現われる至福のとき、すなわち、核抑止力などという物騒な力の支配のない、万物和合の時代を開くため、新しい視点を開かなければならない。核廃絶究極の願いはそこにある。