基本的人権としての信教の自由
カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/08/01/ 00:00]
基本的人権としての「信教の自由」は現在広く知られている。しかし、その真の意味が理解されているかどうかについては疑問が残る。信教の自由とは、自分が真理と認める宗教を誰にも妨げられず、誰にも強制されないで信奉する権利と義務を意味するが、これを、特定の宗教を信じなくてもよい自由だとする誤解も無いわけではないからである。そこで、カトリック教会が実施している「異邦人の使徒パウロ」の記念の年にちなんで、信教の自由の本質について考えてみたい。
人間は生まれながらにして自由な存在である。人間は各自、生物進化の結果ではなく、天地創造の神により、神の似姿として直接に創造されたもので、知恵と自由を備えた独立主体としての人格(ペルソナ)であり、自らの責任において人生のあり方を選び、実践してその究極の目的を達成しなければならない。そのため、人間は各々、自分と世界が何であり、またどこから来てどこへ行くかを自ら探求して、その真理を見出さなければならない。その意味では、人間はそれぞれ一人の哲学者であるといえよう。こうして、各自の生まれた民族や国家の文化伝統の中で、家庭教育や学校教育、マスメディアや交友その他からの情報、更にはいずれかの宗教の教えを受けて学びながら、遂には自分自身の自由意志により、真理に基づいて、最終的には良心の判断に基づいた自分の生涯を自由に選択しなければならない。これが、基本的人権としての信教の自由である。
こうして、自分の人生に関する究極の真理を究明することは各人の極めて重要な義務となる。カトリック教会は人間各自がその人生設計において信奉すべき真理とは天地創造の神の意志であり、それは人間理性の光と神の啓次の光によって知られると主張している。神のうちに隠された人間創造の究極の意味と目的は、人間の力だけでは明らかにされえないことを確信しているからであり、それは、人となられた神の御子キリストによって完全に啓示されたと確信しているからである。第2バチカン公会議は教える。「キリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(現代世界憲章22)。
同時に、カトリック教会は、神が人間を自由な存在として創造したのは、創造の目的達成のために人間の自由な協力を得るためであったと教えている。「神は、わたしなしにわたしを造られたが、わたしなしにわたしをお救いにならない」とは聖アウグスチノの有名な言葉である。
そこで、『カトリック教会のカテキズム』は端的に次のように述べる。「すべての人間は、真理、とりわけ、神とその教会に関する事柄についての真理を探究し、知った上は、それを受け入れ、そして守る義務を持っています。この義務は、人間の本性そのものに由来するものです」(n.2104)。「人間は個人としても社会人としても、神に真正な崇敬を捧げる義務があります」(n.2105)。
それゆえ、神が預言者たちを通して、遂には人となられた神の御子キリストを通して明らかにされた神の真理は、すべての人間の人生選択における指標としてすべての人間に伝達されなければならない。こうして、教会の創始者キリストは弟子たちを世界に派遣するに当たって命じられた。「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ16,16)。
ここで明らかなように、人間の自由は啓示する神に対して「ノー」ということができる。しかし、それは自由の乱用であって、結局は「罰せられる」、つまり、自らを滅ぼす結果を招くはずである。だから、異邦人の使徒パウロのように、現代の教会も人生の真理、すなわちキリストの福音をすべての人に告げなければならない。それは告げられる人間たちの究極の運命を左右する重大事である。しかし、それは信仰への招きではあるが、信仰の強制ではない。福音の告知を受けた者は自分の自由意志によって神に答えなければならないだけである。第2バチカン公会議は述べている。
「神は自分に霊と真理とをもって仕えるよう人々を招いている。それで、人間は良心において束縛されてはいるが、強制はされていない。実際、人格はおのが判断で行動し、自由を享有するものであるが、神は自ら創造した人格のこの尊厳を考慮する」(『信教の自由に関する宣言』11)。