虚偽に満ちた人間社会

虚偽に満ちた人間社会

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/10/15/ 00:00]

最近の世相を見ると、わが国においても諸外国においても、この世は虚偽に満ちていると言わざるを得ない。大分県教委汚職、汚染米の転用、汚染ミルク(中国)、さらには年金記録改ざんなどなど、われわれはこれらのうそと偽装のニュースを目にしない日はない。果たしてこの世に真実はありえないのか。

もしこの世界が創造主なる神の傑作であり、調和の美を賛美するコスモスであるならば、究極の真理は神のみにある。そしてこの神の真理が人と世界の究極の意味と目的を示す。だから、人間と世界は神の思い、すなわち神の計画に合致すればそこに真理があり、真実が実現する。しかし、人が神から離れ、地上のものに執着するなら、そこには虚偽と裏切りだけがあるに違いない。要するに、うそや偽装は神に離反した人間の心から出るものにほかならない。

それでは、もともと人間には真理はないのか。答えはもちろん肯定的だ。人間本来の理性は神の理性の分与であり、人間の本性には世界の創造者である神の思いがインプットされている。だから、その理性に従い、その善悪の判断である良心にかなえば、人間は真実を生きることができる。しかし、現実は必ずしもそうではない。だから、もし真理に従えないとすれば、それは人間の罪で結果であろう。聖書はそう教える。「罪とは、神から離れ、被造物に執着すること」とは古くからの罪の定義である。この罪から開放され、神の真理に生きるためには神からの救い主・イエス・キリストの救いにあずかる以外に道はないというのが、聖霊に導かれる教会の確信である。

しかし、残念ながらあのルネッサンス以来、人間の理性は神の理性に違反して自立(autonomia)を主張する。いまや近代合理主義は頂点に達した感じだ。さらには近代の主観主義的哲学に毒されて人間はさらに真理から遠ざかっている。実証科学以上の真理を認めず、自分の目先の都合しか考えないのである。この世俗主義が極まる現代世界において、名誉、権力、生活のおごりを希求する人間はうそと偽装の中に身を置いてしまった。

この真理から離れた人間社会は外面の華やかさにもかかわらず、すべて空しいといわなければならない。「祇園精舎の鐘の音は、諸行無常の響きあり」に始まる平家物語は、神なき現世の空しさを教えていないか。それは聖書の世界でも同じことである。コヘレト書は若者に言う。「知っておくがよい。神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れてゆかれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」(コヘレト11,9-10)。続けて老人にも言う。「人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白金の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」(コヘレト11,5-8)。

では、神の真理を生きるとは何か。それは、神の天地創造の思い、すなわち計画を知っていることである。神のみ旨、神の意思、神の理性、すべて同じ意味である。この神の思い、神の計画は神の第二のペルソナ、すなわち永遠のロゴス(言葉)である神の独り子のうちにある。御子は神の生き写しであり、神の思いそのものである。ヨハネ福音書は言う。「御子は恵みと真理に満ちていた」(1,14)。その御独り子が人間となってこの世に来られた。これがイエス・キリストである。こうして、この世に人間となって来られたキリストは神の真理を完全にわたしたちに啓示された。キリストは言われる。「わたしは道であり真理でありいのちである」(ヨハネ14,6)。まさにキリストは神への道であり、神の真理であり、神のいのちである。

そして、キリストは言われる。「真理はあなたがたを自由にするであろう」(ヨハネ8,32)。真理を生きるとき、人間は自由になる。つまり、偽りや「偽りの父」である悪霊から解放されて本当の人間になり、人間に神が与えた究極の目的に達することができる。しかし、真理から離れるとき、人間はその存在の理由と目的を失い、究極の滅びに至る。したがって、うそと偽装に満ちたこの世は回心して神に立ち返らなければならない。これが、うそと偽装に満ちた現代世界への教会のメッセージである。