キリスト教はアジアに通じないか

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キリスト教はアジアに通じないか

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/11/15/ 00:00]

去る10月1日の南日本新聞文化欄に「バチカンから見たアジア」と題する註バチカン大使・上野景文氏の論文が掲載された。論旨は「カトリックの教理はアジアの人々の心を打つものとなっていない。だから、バチカンはインカルチュレーションをもって「信者数拡大へ将来に布石」としているというにある。果たしてそうか。

論文は、註バチカン大使という立場にある論者だけあって全般に好意的であるが、読む人によっては誤解を招く恐れがある。結論から言えば、まずキリストの教えはアジアにも適合することを強調しなければならない。その理由は。

第一に、キリストの教えは普遍的真理だから、すべての人類に適合する。従って、アジア宣教においてカトリックの教理を変える必要はない。第2バチカン公会議は、「神は全人類を地の全面に住まわせられたので、すべての民族は一つの共同体をなし、唯一の起源を有する。また、すべての民族は唯一の終極目的をもっており、それは神なのである」(『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』no1)と宣言している。

第二に、多くのアジアの人々がキリストを信じている。最近の統計によれば、アジアのカトリックは全カトリック人口の約10、3%、約1億1千万人で、少数派だが、伝統的な諸宗教の間にあっては決して少ない数ではない。しかもアジアのカトリック人口は確実に増加している。その上、世界のキリスト教をバックにしたその影響力も決して小さくはない。たとえば、日本国憲法の「人権・平和主義」がキリスト教思想の影響を受けていることを誰も否定し得ないだろう。

第三に、カトリック教会は第2バチカン公会議以来、文字通り世界各地を等距離に見る普遍的教会となっており、対話とインカルチュレーションを宣教における基本方針としている。ここに言うインカルチュレーションとは、カトリックの教えの本質を変えて地域や民族の文化に適応することではなく、各地の文化を否定せず、かえってそこに溶け込みながらこれを根底から浄化し、高め、完成すること(文化の福音化)を意味する。パウロ6世は文化の福音化とは「福音によって諸文化を再生させること」(使徒的勧告『福音宣教』n.20)と述べている。文化というものは、常に未熟・未完成の人間の条件である以上、固定されて継承されるだけでなく、絶えず深化・発展しなければならないからである。そして文化の発展は出会いと対話を通して行われる。対話とは妥協することではなく、まして自説を変更したり引っ込めたりすることではない。違いを述べ合いながらともに真理を求めることだからである。

そこで、我々はアジア宣教に希望をもって取り組んでいる。忍耐強く、あらゆる正当な手段をもって福音宣教に邁進する方針である。同時に、アジアの人々を愛し、世界の真実を求めて真理にあこがれるその心情に共鳴する。人間の心には神の思いがインプットされており、すべての人が偉大な神に心を惹かれている。「神のうちに憩うまでは、わたしの心は安らぐことがない」と聖アウグスチノが言うとおりである。したがって、真の宗教心はこの宗教的心情の表れであり、我々はそのような人々と真剣に対話し、ともに究極の実在を求めて協働する。

事実、多くのアジアの人々が良心の促しにより真理を求め、その機会さえ与えられればキリスト教の教えに耳を傾けることを否まないはずである。たとえば、わが国の禅仏教では多くの修行者が深い瞑想の中で「究極の実在」を求めており、それはわれわれキリスト者と同じ目標を目指しているといえないか。これまでも禅の老師たちはカトリックの専門家と霊的対話を重ねており、直ちに妥協することはありえないとしても、やがて真理に触れて心の目を開くに違いない。一方、浄土真宗などの救済仏教においても、来世を信じて仏の救済を希求している限り、たとえ不十分とはいえ、究極の真理への憧れと追求の姿勢には何ら偽りはないであろう。これらの指摘は多かれ少なかれアジア諸国の宗教者たちにも通じるものがあるはずだ。

第2バチカン公会議は、教会の古くからの伝統に従い、諸宗教の中にも「みことばの種」があることを断言して言う。「普遍なる教会は、これら諸宗教の中に見出される真実で尊いものを何も退けない。これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し、提示するものとは多くの点で異なっているが、すべての人を照らす「真理」のある光線を示すことが稀ではない。しかしながら、教会は絶えずキリストを告げ、また告げなければならない。キリストは「道であり、真理であり、生命であり」(ヨハネ14,6)、キリストにおいて人は宗教生活の充満を見出すのであって、キリストにおいて神は万物をご自分と和睦させたのである」(諸宗教宣言n.2)。



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