世界人権宣言60周年
カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/12/01/ 00:00]
今から60年前の1948年12月10日、第3回国連総会は世界人権宣言を採択した。また、2年後の1950年、国連は第5回総会において記念すべき12月10日を「世界人権デー」とすることを決議し、そして日本政府は12月10日に先立つ1週間を「人権週間」とすることを決めた。
度重なる悲惨な戦争を体験し、共産主義政体を含む全体主義の拡散を目の当たりにし、主観主義と個人主義が横行する中で、人格の尊厳に基づく基本的人権とその擁護を宣言した意味は大きい。ここでまず、かの有名なヨハネ23世教皇の言葉を思い起こしておきたい。少し長くなるが、教皇の言葉を引用したい。
「国際連合が果たした最も重要な業績のひとつは、『人権に関する世界宣言』であった。この宣言は、1948年12月10日、国際連合総会によって承認された。その前文には、この宣言に列挙されているすべての権利と自由との有効な確認と遵守とは、すべての人民と、すべての国とが達成すべき目標であると宣言している。
この宣言の幾つかの点が反対論を引き起こし、正当な保留の対象となったのを知らないわけではない。しかし、わたしは、この宣言は、すべての人に例外なく、おごそかに、その人間としての尊厳を認めているし、各個人が、自由に真理を探究し、倫理の基準にしたがい、正義の義務を実行し、人間の尊厳に合致した生活条件を要求する権利、および、これに関連するその他の諸権利をもっていることを断定している。
であるから、わたしは国際連合がその機構と活動手段とを、その広汎にして崇高な使命にますます適合させることを切望する。一刻も早くこの組織が人間の人としての諸権利を有効に保証する時がくるようにと願う。これらの権利は人間の本性の尊厳から直接に生まれるものであり、そのため、普遍的であり、侵すべからざるものであり、譲渡すべからざるものである。この願いは、人間がますますそれぞれの政治共同体の公共生活に参画し、すべての民族に属する諸問題に対してますます高い関心を示し、世界的人類家族の活動的成員としての自覚をますます強く意識している今日、いっそう切なるものがある」(回勅『地上の平和』第4章)。
教皇が指摘するこの宣言の普遍性は、192の国と地域が国連に参加している現在、世界中がこれを認めたと言い得ると思うが、しかしその理解と実践においてはいまだしの感が強い。従って、宣言60周年の今年は、あらためてこの歴史的宣言を意味を問い直す絶好に機会である。
そこでまず強調したいのは、権利は義務と一体であり、権利(自由)には義務(責任)が伴うということである。つまり、自ら人格の尊厳にふさわしく生きる義務のあることを想起すると同時に、他者の人権を擁護する義務のあることを厳しく自覚しなければならない。この自覚がないがしろにされるとき、自分の権利は主張するが義務は守らないという矛盾が起こる。これは、我々の日常の体験ではないだろうか。
次に、人間人格の尊厳にふさわしい権利を守り義務を果たすためには共同体に参加しなければならないということを強調したい。人間は独りでは生きられない。人間創造の始め、神は言われる。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう」(創世記2,18)。こうして女が造られ、結婚の制度が始まり、家庭共同体が生まれ、やがて当然のこととして政治共同体が発展してきた。今日の国家共同体である。
共同体において、これに所属するすべての成員は責任ある自由な人格として積極的に共同体に参加し、その分に応じた貢献をなし、そして共同体から人間にふさわしく生きるための様々な恩恵を享受する。共同体の目的は成員である各個人である。国民の自由を制約する全体主義社会や利己的な放漫な自由を主張する個人主義社会は否定されなければならない。こうした人格的社会への自覚は果たして十分だろうか。結婚や家庭の共同体が軽視され、政治への参加においても弱肉強食を助長する風潮には注意が必要だ。
一方、人間人格の終極の目的である霊的、かつ超自然的な共同体、つまり教会共同体への参加の権利と義務もまたここで強調しなければならない。この地上に生きる限り、政治的かつ社会的な必要を満たすことは当然であるが、しかし、人生の目的はこの世では達成できない。どうしてもこの世を越えた永遠の生命への参与が必要なのである。