「キリストこそ真の哲学者」

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「キリストこそ真の哲学者」

カテゴリー カトリック時評 公開 [2008/12/15/ 00:00]

中央公論11月号の書評に『哲学の歴史』全12巻+別冊が取り上げられた。「古代ギリシャのタレスに始まって、二十世紀後半のフランスのポストモダンの思想に至る流れが、時代順に十二巻に割り振って解説される」西洋哲学の歴史解説で、出版文化賞なども受けてちょっとした話題である。

わたしも中世哲学を扱った第三巻「神との対話」を買って読んだが、聖アウグスティーヌスや聖トーマス・アクイナスの哲学がかなり適切に紹介されていて好感が持てた。しかし、この出版が哲学的素養を身につける機会をもたなかった人々にどんな意味があるのだろうか。その答えは意外にも現教皇ベネディクト16世の新回勅『希望による救い』の次の言葉に見出せよう。

「当時(古代)、哲学は、通常、現代のように難解な学問と思われていませんでした。むしろ、哲学者とは、本質的なあり方を教えることのできる人のことでした。本質的なあり方とは、正しい人間となる方法、すなわち、生き方、死に方のことです」(n.6)。

これは、まさに哲学本来の使命をずばり喝破した名言だと思う。知恵を備えた人間、理性的な人間は自分と世界の意味と目的を問うてやまない。特に、生活に余裕ができてふと自らを振り返るとき、人生を考えない人はおるまい。事実、自由時間を得るようになった古代ギリシャ人は、「人間とは何か」、「人間はどこから来てどこへ行くのか」などと人生を考え始めた。これが、哲学のそもそもの始まりである。しかし、回勅は続けて哲学の歴史が常に正しい方向に進んだのではないことを次のように述べる。

「もちろん、以前から人々は知っていました。哲学者や、人生の教師を自称する多くの人が、ことばによって金儲けを企むいかさま師に過ぎず、真実の生については何もいえないということをです。だからこそ、いっそう人々は、本当に人生の道を示すことのできる真の哲学者を探し求めました」(同上)。

ギリシャ哲学史を見れば、確かにいかさま師が少なくなかったようである。当時、ソフィスト(知者)と呼ばれる教師たちは博識を商売道具として名声と金儲けに走ったことが知られる。彼らを非難してソクラテスは「哲学」(Philo-sophia -真理への愛)を説いたという。ソクラテスの弟子にプラトン、またその弟子にアリストーテレスがいて、両者は古代ギリシャ哲学の双璧だが、哲学を完成できなかった。そして中世期の聖アウグスティーヌスと聖トーマス・アクイナスはキリスト教哲学の双璧で、神の啓示を成就したキリストの光の下に哲学を完成する。以後、哲学は堕落し、啓示、すなわち神の理性に心を閉ざして人間理性の徹底した自立を主張すると同時に、ついには実在から離れて主観の殻に閉じこもり、哲学の使命から遠ざかってしまった。そんな哲学史の経緯を頭に入れながら、回勅の続きに目を留めてみよう。回勅は「真の哲学者・キリスト」を紹介して述べる。

「三世紀末のローマの子どもの石棺に、ラザロの復活(筆者註・キリストが行った奇跡)との関連で、初めて真の哲学者としてのキリスト像が現われます。このキリストは、片方の手に福音書を、もう片方の手には、哲学者の持ち物である旅行用の杖を携えていました。キリストは(片方の手の)杖によって死に打ち勝ちます。(片方の手の」福音書は、旅する哲学者たちが捜し求めて見出せなかった真理をもたらします。

その後、長い間、石棺美術に広く見られるこの象徴のうちに、教養人と庶民がともにキリストのうちに見出したものをはっきり認めることができます。キリストはわたしたちに、人間が本当にいかなるものであり、真の意味での人間となるために、人が何をなすべきかを語るのです。キリストはわたしたちに道を示します。そしてこの道が真理です。キリストご自身が道であり真理です。だからキリストは、わたしたち皆が探し求めるいのちでもあります。キリストはわたしたちに死を超えた道をも示します」(同上)。

『哲学の歴史』は真の哲学者キリストについて何も語らない。しかし、聖アウグスティーヌスや聖トーマス・アクイナスら中世の哲学者たちが、キリストの光、つまり聖書に示される啓次の光(真理)に照らして自らの哲学を補完し、完成させたことは丁寧に説明されている。このような哲学が20世紀初め、ジルソンによって「キリスト教哲学」と正当に呼ばれたことも紹介されている。他方、近現代哲学が難解な議論をしている間にも、教会はトーマス哲学の伝統に従い、今もキリスト教哲学を堅持している。キリストの光の中でこそ哲学はその使命を全うできるからである。聖トーマスが「恩寵は自然を破棄せず、完成するからである」(『神学大全』1,1,8)というとおりである。だから、キリスト教哲学はカトリックの神学やカテケージス、倫理や社会教説その他、教会の教えの中に一貫して生かされている。本来、哲学は庶民のためのものでもある。人間は皆、人生の指標となる健全で、わかりやすい哲学を必要としているのである。

もうすぐクリスマス。「真の哲学者キリスト」のご降誕を特別に意識して祝うのも、『哲学の歴史』出版を記念するよいイベントになるかもしれない。



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