壮大な宇宙の謎を解く

壮大な宇宙の謎を解く

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/01/15/ 00:00]

国際連合、ユネスコ、国際天文学連合主催の「世界天文年」が始まった。ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を使って天体観測をしてから400年を記念し、天文学と宇宙への関心を高めることが目的だという。大いに結構な趣旨であるが、ついでにカトリック信仰における宇宙理解の要点を紹介しよう。

本論に入る前に、まず、教会がガリレオを裁き、有罪にしたのは誤りであったことを告白しなければならない。ヨハネ・パウロ2世は1992年、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、謝罪した。今日の教会は自然科学であれ、哲学であれ、はたまた神学であれ、すべての学問の自由と自律を認めている。それは、同時に、理性と信仰が互いに矛盾せず、相補い合って真理を明らかにすることを意味する(現代世界憲章36参照)。

1-壮大な宇宙の謎にいどむ天文学

ガリレオによって始まった天文学は、今や長足の発展を遂げたし科学や技術を駆使して壮大な宇宙の謎解きに挑んでいる。しかし、果てしなく広がる宇宙の中で、「光などを手がかりにして見えるのは5%弱、残りの約95%が正体不明なのだ」(朝日新聞社説)。だから、天文学の将来は無限ともいえようが、しかし、形而下にしか通用しない天文学が、宇宙の究極の謎、すなわち、宇宙の起源や終極の目的など、形而上の意味について解き明かすことはできない。

ならば、宇宙の究極の謎を解くのは誰か。一つは形而上の世界に挑む哲学であるが、哲学は宇宙の起源について、「不動の第一原因」にまでは推論を進めるが、それ以上は無理である。この無理を可能にするのは宇宙の創造者であり、主宰者である神からの啓示以外はない。つまり、聖書の教えに基づいて解明するほかないのである。

2-天地創造の歴史

宇宙の起源を語る聖書は創世記であり、その第一部、すなわち、「初めに神は天と地を造られた」に始まる第1章から11章において、世界と人間の創造の歴史が語られる。しかし、この歴史は特殊な歴史であり、今日の科学的な用語や文体ではなく、当時の人々が用いていた常識と文体をもって宗教的な真理、たとえば神は人間を含む万物を無から創造したこと、人は罪を犯して堕落したこと、救世主による救いの約束などが語られる。

言うまでもないことだが、ここで言う創造とは一時的な行為ではなく、創造された存在を保ち、主宰するということを意味している。万物の存在は、常時、神に依存しているのであり、神の許しなしにいかなるものも存在し得ないのである。しかし同時に、万物は存在し始めた以上、科学や哲学など、人間の知的探求の対象であることは言うまでもない。天文学が成り立つ所以である。そして、人間の理性によって発見された真理は、不合理な神話や迷信を追放するほか、啓示の真理に抵触しないばかりか、創造主の英知と愛の偉大さを、聖書的表現よれば、神の栄光をいっそう輝かすことになる。よく言われることだが、真の科学者に無神論者はいない。

3-キリストによる宇宙のあがないと完成

創造主なる神の支配の中にありながら人間の罪によって堕落した世界は、人間となった神の子キリストによってあがなわれ、再生して終極の完成に向かっている、というのがキリスト教の宇宙観である。聖書は証言する。「(神のご意志に秘められていた神秘とは、)天にあるもの、地にあるもの、すべてのものを、キリストを頭として一つに集めるということです」(エフェゾ1,10)。

教皇ベネディクト16世は次のようにナジアンズの聖グレゴリオの言葉を引用している。「星に導かれて、占星術の学者たちが新しく生まれた王であるキリストを礼拝したとき、占星術は終わりを迎えました。今や星はキリストが定めた軌道の上を動くからです」(回勅『希望による救い』5)。これはつまり、地球を含む全宇宙はキリストの手にゆだねられてあがなわれ、完成への道を進んでいるということである。わたしの古い友人G.ネラン神父は、テイヤール・シャルダンの『神の場』(Le Milieu Divin)を解説するその著『神の場』(新教出版社・1972)において、世界に充溢しているキリストのエネルギー(聖霊)を電力にたとえているが、宇宙全体が今やキリストのスイッチが入った状態にあるわけだ。

キリストによる世界のおあがないと再生の仕事は世の終わり、キリスト再臨のときに終結し、完成する。そのとき、人間の体も物質世界も復活したキリストと同じように霊化され永遠化されて全く新しい装いをまとうであろう。その様子はわたしたちの想像を絶するが、聖書はこれを「新しい天と新しい地」(イザヤ65,17;2ペトロ3,13;黙示録21,1)と呼んでいる。

以上のようなキリスト教的宇宙観をもって見れば、世界天文年もまた違った興味をそそるのではなかろうか。