オバマ大統領、妊娠中絶を容認
カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/02/01/ 00:00]
「オバマ大統領は23日、妊娠中絶を支援する団体への連邦予算の拠出制限を解除する大統領令に署名した。これに伴い、保守派が「中絶に使われている」と主張してブッシュ前政権時代に中止されていた国連人口基金への予算拠出も、再開する意向を表明した」(見出しを含め、朝日新聞ネットニュースから)。
ニュース記事は続ける。「オバマ氏は声明で、この問題について「政治問題化に終止符を打つ時だ。家族計画に関する新鮮な論議をし、世界の女性のためになる一致点を見出す」としている。保守派の反発をあおらない意図から、大統領令への署名は公開されなかった。キリスト教保守派の指導者からは「世界の胎児への拷問を輸出する命令だ」と反発の声があがっている」。
ところで、カトリック教会は古くから、人間のいのちの尊厳とその基本的権利・義務として、「人間のいのちは、妊娠の瞬間から自然死に至るまで、絶対に尊重されなければならない」と主張してきた。前教皇ヨハネ・パウロ2世は言明する。「いのちに対してなされるあらゆる犯罪の中でも、人工妊娠中絶行為はとりわけ深刻で嘆かわしいものであるという特徴があります。第2バチカン公会議は、生まれたばかりの子どもを殺すこととともに人工妊娠中絶を『恐るべき犯罪』(現代世界憲章51)であると明言しました」(回勅『いのちの福音』58)。
同回勅は人工妊娠中絶が重大な殺人行為であると次のように警告する。
「実行された人工妊娠中絶の道徳的な重大さは、行われるのが殺人行為であると理解するなら、また、とりわけその行為にふくまれる特別な諸要素を考察すれば、全く明らかです。そこで抹殺されるのは、いのちのごく初期にある人間です。このようないのちほど、正統な理由なく攻撃する者と見なされるわけはありません。ましてや、不正な攻撃者であるはずがありません。このような彼あるいは彼女は弱者であり、身を守る手だてをもちません。新生児が泣き涙する、あの心に強く訴える力に存在する身を守る最低限の表現さえ持たないのです。母親の胎内にいる子どもは、その子を胎内に宿す女性の保護と配慮とに全面的にゆだねます。しかも、時として決断し、その子を亡き者にすることを願い、その実行に踏み切るのは、まさに母親自身なのです」(同上)。
報道によれば、オバマ大統領は、妊娠中絶は女性の権利であり、これを守るのが大統領令の趣旨であると弁明しているが、とんでもない。子どもを妊娠した以上、母親は自分のいのちに代えて胎児を産んで育てる権利と義務を持っている。従って、いかなる理由があれ、自分に頼りきっている胎児を殺すことは女性の権利の乱用であり、女性の尊厳を踏みにじることである。人工妊娠中絶を容認することは、母親の心に一生消えない傷を負わせると同時に、「いのちの聖域」である家庭を「死の文化」で汚す暴挙である(回勅『新しい課題』39参照)。
同時にまた、国民のいのちを守り、これを助長することが政治の基本であり、最優先の義務である。従って、妊娠中絶を容認することは己が使命への裏切り行為にほかならない。政治の使命は胎児殺しで家庭を汚すことではなく、安心して子どもを産み、育てることのできる家庭環境(ヒューマン・エコロジーの原点)を擁護し、支援することでなければならないはずである。
米国大統領の就任式が今回ほど注目され、期待されたことはこれまでなかった。米国民のみならず、世界中の期待を一身に担っているのがオバマ大統領である。不当な戦争を否定し、経済危機において弱者を守り、人種や民族、そして宗教の違いを超えて、すべての人々に一致と責任ある協力を求める大統領の信念に対して、多くの人が賛成し、期待したその本意は、道義にかなった政治、すなわち政治のモラルを求める切なる願いではなかったか。良いも悪いもすべて前政権の逆をいけばよいというものではあるまい。政治は自由である、しかし、その自由は人の道(自然法)に抵触しない限りにおいてである。