人はなぜお金に執着するのか

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人はなぜお金に執着するのか

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/02/15/ 00:00]

このごろよく思うのは、なぜ人はこの世に執着するのだろうかということである。衣食住や趣味のためにお金がいることは十分承知だが、必要なお金には限度があり、何も他人を困らせたり、路頭に迷わせたりして巨額の金を溜め込む必要はないはずだが、今回の経済危機を見ていると、そう思わざるを得ない。

しかし、不思議なことに人間はこの世がはかなく、頼りにならないこともよく知っている。たとえば、長生きしたいとは思っても、いつまでも永遠にこの世に生きていたいと望む人はいない。億万長者になっても、その巨額の富をあの世まで持っていけるとは誰も信じていない。それなのに、なぜ人はこれほどまでにこの世のものに執着するのだろう。それこのまさに、この世のほかに頼るべきものを持たないからではないのか。

教会には罪についての古い定義がある。すなわち、罪とは「神から離れて被造物に執着することである」(Aversio a Deo, Conversio ad Creaturas)。この定義に従えば、人がこの世に執着するのは人類が罪の状態にあるいうことにほかならない。いわゆる原罪を背負っているということ、つまり神から離れ、神を忘れ、更には神を知らないということである。従ってここでいう神とは、人間を愛してこれに至福のいのちを与える全能の父である。この父を知らないために、はかないこの世に執着せざるを得ないのである。

現教皇ベネディクト16世はその回勅『希望による救い』の中で聖パウロの次の言葉を引用して述べる。「パウロはエフェゾの信徒に思い起こさせます。あなたがたはキリストに出会う以前は、『この世の中で希望を持たず、神を知らずに』(エフェゾ2,12)いました。もちろんパウロは、彼らが神々を信じていたこと、宗教を信じていたことを知っていました。けれどもこの神々は当てにならないものでした。矛盾し合う神話から希望は生じてきませんでした。彼らは『神を知らずにいました』。従って、暗闇の世界に生き、未来がどうなるか何もわかりませんでした」(『希望による救い』2)。

回勅はさらに言う。キリストによって神を知ったキリスト者たちの「信仰は、人生に新しい基盤を与えます。すなわち、より頼むことのできる新しい基盤です。この基盤は、通常の基盤、すなわち、物質的な収入への信頼を相対的なものとします」(同8)。

ここに言われる「相対的なものとする」に注目したい。キリストのあがないによってもたらされた神の国への信仰とその完成への希望こそ、より優れたいのちの基盤であって、これに比べればこの世の基盤である財産や収入は「取るに足りないもの、捨ててもかまわないもの」(回勅)でしかないのである。

このことを特別に証しした人々がいると教皇は言われる。一つは殉教者たちであって、この世のいのちと永遠のいのちのどちらを選ぶかという二者択一を迫られたとき、ためらうことなく永遠のいのちを選んで死を甘受する。一方、修道者(と奉献者といわれる信者団体)は、清貧、独身、従順の誓願をもってこの世を捨て、全く自由になって神と人々への愛に身を捧げている。これらの人々の生き様、死に様は、この世の富や権力に執着する暗闇の世界に自由と希望の光を輝かすものである。

言うまでもなく、地上の財貨の相対性はその必要性や重要性を否定するものではない。わたしたちが地上に生きている限り、いただいたいのちを人間としてふさわしく生きぬくためには、それを支える一定の財産や収入が必要である。人類創造の初めから神は人間に「額に汗して生計を立てる」(創世記3,19)使命をおあたえになったのであり、旧約聖書を成就する新約聖書においても、聖パウロは言う。「働きたくない者は食べてはならない」(2テサロニケ3,10)。要するに、これこそ私的所有権の源泉であり、従って、労働と所有への権利と義務は人間本来の基本的人権なのである。

他方、人間は社会的存在であり、互いに補完し合い、助け合って生きていかなければならない。人間が「本質的には平等であっても、偶有的素質において差異がある限り」(社会綱領)相互補完は必然であり、その範囲は家庭に始まり、今や地球規模にまで広がっている。従って、限りある地上の富は人類共通の遺産として公平に分かち合うもう一つの社会的な権利義務が生じる。先に述べた地上の財貨の相対性はこの世界的分かち合いを容易にし、実現するための根拠を与えるものとなろう。私有財産はわたしのものであると同時にみんなのものなのである。

抑制なき資本主義の矛盾が露わになり、新自由主義や市場原理主義が行き詰まった今、労働と所有に関するキリスト教的感覚は特に注目されなければならないと思う。



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