世界不況の今、なぜ和魂洋才か

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世界不況の今、なぜ和魂洋才か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/03/01/ 00:00]

「自力社会が行きづまった今こそ、和魂洋才にかえれ」。 文芸春秋3月号に作家五木寛之と宗教学者山折哲雄の特別対談「不況と親鸞――他力の時代が来た」の副題である。「未曾有の経済危機」などと言われる今日の世相の中で、これを単なる景気循環現象として受け流すばかりではなく、事の真相に迫って論じた興味ある対談である。

対談は、「今回起きていることは周期的に起きるバブルの崩壊ですが、その背後にはもっと大きな本質的な変化があります」とし、それは「人間は地上の王である、という人間中心主義、ルネッサンス以来のヒューマニズムが限界に来てしまったとも言えます」と断じ、「自力社会が行き詰まった今こそ、和魂洋才に帰らなければならない」というのが対談の趣旨のようである。

まず、「ルネッサンス以来のヒューマニズムが限界に来てしまった」という判断については、その通りであると思う。ルネッサンスのヒューマニズムは、神の支配から人間を解放し、その自由に任せれば、理性の力で地上の楽園が実現できるという、いわば理性信仰である。そして実際、科学・技術の発達により、豊かで快適な暮らしを人々にもたらしたが、同時に、弱肉強食の容赦ない競争を招くと同時に、個人的にも社会的にも罪悪は相変わらず世に満ちている。際限なき利潤追求のため、自由の名のもとにどれほどの不正や搾取が行われ、どれほどの偽装と詐欺が行われたことか。民族を隔てる溝は一層深くなり、戦争やテロもなくならない。あの頃、学校教育が普及すれば刑務所はなくなるとと言われたが、今や刑務所はどこも犯罪者であふれている。科学も技術も、悪に傾いた人間本性を内面から変えることはできない。ヒューマニズムが称える人間の自由は罪を犯す自由でもあったのだ。

対談の中で山折哲雄氏がアダム・スミス(1723-1790)の富国論から「神の見えざる手」を引用していることは興味深い。富国論には「見えざる手」とあるが「神の」の文言はなく、従って、それは市場経済の自助調節機能、すなわち、各個人が自己の利益を追求すれば結果として社会全体の利益が達成されることを意味している。これは、人間本性は生来善であるというルソーらの性善説が根底にあると思われるが、その期待が裏切られていることは周知のとおりである。しかし、この「見えざる手」をキリスト教の神に見立て、ヒューマニズムの失敗を一神教の失敗として、代わりに「和魂」すなわち多神教である日本の神々に置き換えようというのであれば、賛成するわけにはいかない。

なぜなら、第一に、ヒューマニズムもその結果としての物質文明もキリスト教を度外視して打ち建てられたものであるからだ。第二に、多神論は「多様性」は是認するが、どの神をとっても普遍的な神はなく、従って、世界を一つにまとめる普遍的な「統一の原理」ではありえないからである。つまり、多神教である限り、個人主義を容認せざるを得ないのである。キリスト教の教えによれば、人類から楽園を奪った罪の結果は、秩序の破壊であり、分裂である。この罪から解放されて楽園を取り戻すためには、人類を内面から一新して一つにするしかない。それは実際、普遍的な一致の原理である神の愛によって人類は再結集されるのである。人となった神の愛・キリストの十字架の死は「散らばった神の子らを一つに集めるため」(ヨハネ11,52)であった。人類を救う神のご計画は「天にあるもの、地にあるもの、すべてをかしらであるキリストのもとに一つに集めることである」(エフェゾ1,10)。

そこで、今ここで強調したいのは、魂を失っている「洋才」、すなわち現代物質文明は、本来カトリック(普遍的)であり世界宗教であるキリスト教信仰を取り戻さなければならないということである。普遍宗教である限りキリスト教は西欧の宗教ではないが、もしこれをあえて「洋魂」と呼ぶなら、「和魂洋才」ではなく「洋魂洋才」でなければならないわけだ。

ベネディクト16世はこれを理性と信仰の関係として言う。「理性は、完全なものとなるために信仰を必要とします。自らの真の本性と使命を実現することができるために、理性と信仰は互いを必要としているのです」(回勅『希望による救い』23)。