人類の歴史ドラマ――主役は神か人間か

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人類の歴史ドラマ――主役は神か人間か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/03/15/ 00:00]

前回の議論、すなわち、今日の世界不況を単なる自由経済主義の破綻と見るばかりでなく、ルネッサンス・ヒューマニズムの行き詰まりと見る議論を、もう少し大きい、世界史的な観点から整理してみたい。

聖書は人間ドラマ、その歴史ドラマの集約であると言われる。そこには、「初めに、神は天地を創造された」(創世記1,1)という全聖書の最初の言葉によって人類の歴史の始まりが示されると同時に、「主イエスよ、来てください」(黙示録22,20)という聖書の最後の言葉によって人類の歴史の終局が語られる。その間に、人類の堕落と救済というドラマがあった。

人類の創造として、聖書は人祖アダムの創造を語るが、教会の伝統的な解釈によれば、それは人祖個人の創造であると同時に人類そのものの創造を意味している。人類は三位一体である神の像として、多数であっても唯一の人間本性、いわば一つの人類家族が造られたたことを意味する。「多様性における一体性」は人類創造のはじめからの人類のあるべき姿を表現しているのである。

一体であるこの人類は堕落したと聖書は語る。アダムの罪、原罪であるが、アダムの罪は個人の罪であると同時に人類全体の罪であったというのが教会の一貫した解釈である。そしてこの罪は神の支配への人類の反逆である。創世記が語る楽園の真ん中にあった「善悪の知識の木」(創世記2,9)は神の支配の象徴であり、その禁断の木の実を食べた人類は、神の支配を拒否した結果、さまざまな矛盾と分裂を抱えることになる。その矛盾と分裂は今も人類の上に重苦しくのしかかっている。

しかし、愛によって人類を創造した神は、同じ愛をもって人類を救済する。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3,15)というくだりは「原始福音」と呼ばれ、堕落した人類救済の最初の約束である。この約束は旧約聖書を通して繰り返される。

人類救済の約束は、神の独り子が人間となってこの世に来られたことによって成就する。唯一の救い主キリストの来臨である。十字架上の死と栄光の復活によって救いの業を成就したキリストは、昇天し、聖霊を通して教会とともに救いの業を地上でつづけ、世界の終りに来臨して人類救済の業を完成する。「神の国」の完成であり、神の支配が確立する。これが、キリストの希望であり、人類の希望である。

しかし、この希望を揺るがす「新しい時代の基盤」が現れたと教皇ベネディクト16世はその回勅『希望による救い』(16)の中で言われる。それは、近代合理主義のもとで発展する科学と技術、そしてそれらの制限なき自由な応用である。この新しい時代の潮流は、失われた楽園の回復を、信仰によってではなく、科学とその実践によってもたらされる、との期待である。こうして、人間理性が信仰に取って代わり、人間の支配が、神の支配に代わって、地上の楽園を約束する。この地上の楽園への希望は、1789年のフランス革命と1848年の共産党宣言に始まる革命によってさらに推進されたと教皇は言う(回勅19-21参照)。

フランス革命は、革命が教会信仰から理性信仰への移行を早めた結果、科学と技術の長足の発展に助けられて豊かで快適な社会を招来したが、他方において弱肉強食の著しい格差社会を生んだばかりで、道徳的な退廃を防げず、地上の楽園も実現しなかった。共産主義革命は、資本主義が生んだひずみ、すなわち悲惨な無産労働者(プロレタリア)を救済し、キリスト教とブルジョアを排除したプロレタリア独裁による徹底した「政治の支配」によって地上の楽園を実現すると約束したが、この希望もまた、その唯物主義と人間本性を誤解したイデオロギーゆえに、当然のことながら自壊してしまった。

こうして、地上の楽園を約束した二つの革命が破綻した。理性も政治もそれだけで人類を再生することはできない。だから人類は、あらためて天上の「神の国」、「永遠のいのち」への確かな希望のもとに神の支配に立ち帰り、愛の手にすがるしかあるまい。救いの約束は取り消されてはおらず、今も続行中であり、神のみぞ知るその時に(マタイ24,36)勝利の日を迎えるであろう。そのためにも、とりあえずは宗教からの政治の自主独立を保証する「政教分離」の原則を、政治と教会を分断するのではなく、両者の役割分担と協力を意味するものと理解されなければならない。そのためのプログラムはすでに第2バチカン公会議の『現代世界憲章』に示されている。