愛によって、愛のために

愛によって、愛のために

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/04/01/ 00:00]

金融バブルの破綻によって生じた世界同時不況の中で、多くの貧民層がその被害を受けたが、こうした困難の中で人の情けもまた顕著になったような気がする。企業の社会倫理を主張して起こされる社会企業の話はもとより、民間に見られる善意や愛の行動は、マスコミに現れるものとは比較にならぬほど豊かに行われているのではないか。今回はこの善意や愛のルーツに思いを馳せたい。

科学は明らかに語らないし、また語りえないが、この世界に初めがあることは衆目の一致するところである。移ろいゆく事物が「自らの中に存在の理由をもたない」ことは明らかであって、人も世界も造られた存在、すなわち被造物であり、超越的人格神なる創造主によって日々刻々存在させられている。「われわれは神のうちに生き、動き、存在する」(使徒行録17,28)と聖書が言う通りである。ではなぜ、また何のために、神は人間を造られたのか。人間の究極の存在理由と目的についてのこの問いに、前教皇ヨハネ・パウロ2世は全聖書を総括して次のように答える。

「神はご自分の「かたち」に似せて人間を創造されました。神は人間が、「愛によって」生きるよう招かれると同時に、「愛のために」造られたのです。神は愛であり、ご自身のうちに人格的な愛の交わりの神秘を生きておられます。人間をご自分のかたちとして創造し、存続させながら、神は、男女の人間性に招きを与え、愛し交わる力と責任を課されました。愛はすべての人間の根本的な生まれながらの召命です」(使徒的勧告『家庭―愛といのちのきずな』11)。

ここには特に二つのことが言われている。一つは、神は人間創造において徹底的に人間を愛したということである。全知、全能である同時に全善である「神は愛」であり、愛すること以外にはお出来にならない。第一の証拠は、人間を神の似姿に造り、知恵と自由(理性と自由意思)を与えたことである。こうして人間は神の愛のパートナーとして、神を知り愛する存在とされた。知恵と自由を備えた独立主体であるペルソーナであるからこそ、人間は神の愛の相手となり、神への愛の主体となり得るのである。

人間に対するこの神の愛は、人間が神に背いて罪を犯し、堕落した後も変わらない。人類救済のため、御独り子(神の第2のペルソーナ)イエス・キリストを地上に派遣したのはそのあかしである。主ご自身が言われる。「神はこの独り子を与えるほど、この世を愛した」(ヨハネ3,16)。関連してヨハネは言う。「わたしたちが愛を知ったのは、イエズスがわたしたちのために命を捨てたからです」(1ヨハネ3,16)。

教皇が言うもう一つのことは、人間の存在理由も人生の究極目的も愛であり、愛を生きることであるということである。愛は人間本来の根本召命であり使命である。人間が男と女に造られ、結婚して子供を儲け、原初の人間共同体をつくるよう定められたのはその第一の証拠であると教皇は言う。この原初の人間共同体は次第に広がり、ついには人類共同体へと発展する。さらに、キリストの購いによって罪から解放された人類は、キリストを頭として一つの神秘的は共同体となり、こうして人類は「神の家族」となって永遠の生命に入ることになっている。父と子と聖霊の聖なる交わりを生きておられる三位一体の神は、キリストのもとに神の子らとして一つに集まる人類の原型なのである。

ところで、人生の目的は天国に行くこと、といった従来のイメージは、間違いではないが、しかし、現世から遊離した個人主義的なイメージがあって、最良とも言えない。それより、愛によって愛のために造られた人間の最終目的は永遠の命であり、神の永遠の愛のうちに集う一致と交わりのうちにあるというイメージが、もっとキリスト教的な表現ではないだろうか。この永遠の愛のいのちはこの世で準備され、キリストの再臨によって世の終わりに「からだの復活」において完成することは言うまでもない。

最後に、第2バチカン公会議の言葉をもって締めくくろう。

「キリストは、神は愛であることを我々に啓示した。同時に、人間完成と世界改革の根本法則は新しい愛のおきてであることを教えた。従って、キリストは神の愛を信じる者に、愛の道はすべての人に開かれているものであって、全人類の兄弟的集まりを確立する努力はむなしいものではないとの確信を与える。同時に、この愛は重大な事柄においてだけでなく、まず普通の生活環境の中で実践すべきものであることを忠告する」(現代世界憲章38)。