人は自由、だから選択の責任が
カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/04/15/ 00:00]
「人間の自由はつねに悪を行う自由でもあり続ける」(ベネディクト16世回勅『希望による救い』21)。当たり前のことであるが、そう言われてみると、なるほどとあらためて納得してしまう。人は自由、だから人を殺しても暴利をむさぼっても、また何をしてもよいというわけではないのだ、このあたりでもう一度、真の自由とは何であるかを見定めるのも悪くなさそうである。
1953年の夏、わたしは一人でニューヨークの見学に出かけ、観光船に乗ってマンハッタン島を一周したことがある。その途中、かの有名な自由の女神像を見る機会があった。
頭の部分までで33,86メートルもある巨大な像であるが、そんなことより、アメリカ独立100周年を記念してフランスから贈られたこの女神像は、フランス革命が謳歌した「自由」を象徴するもので、悪をも行い得る人間の自由を絶対化し、神格化したところに問題がある。いまや自由の女神像は世界中いたるところにあり、自由を謳歌し続けているのである。
フランス革命の前提となったルネッサンスのヒューマニズムは神から独立した人間理性に全幅の信頼を寄せ、教会やアンシャン・レジム(封建的な旧制度)の一切の制約から解放して人の自由に任せれば、世界は良くなると考えた。ジャンジャク・ルソーなどの「性善説」に基づいていることは確かである。しかし、こうして始まった新しい自由主義体制は果たして世界を良くしたのか、その成果は歴史が証明している。無軌道な欲望に支配される人間の自由の乱用は、科学・技術の驚異的な発達とともに働いて弱肉強食の格差社会を生み、一層不幸な社会を招来してしまったのではないか。ポスト・モダーンのこの時代、悪いことはやり尽くした感すらある。行き過ぎた新自由主義が世界に混乱と不幸をもたらしたのはその一つの証拠だろう。
前回、この欄で述べたように、人間の自由は「愛の召命」に応えるために神が人間に与えた能力であり、特権である。人間が真に愛し愛される存在であり、自分固有の自由な決断で神を愛し、隣人を愛するためには、人間は真に自由でなければならないのである。しかし、人間が真に自由であるということは愛の招きを拒み、神に対して「ノー」ということもできることを意味する。そして実際、最初の人は禁断の木の実を食べて神に逆らったのである。それでも神が人間を自由な存在に造ったのは、自由に神を愛せない木石や動物ではなく、神の愛のパートナーであることを望んだからであり、そのためには人間が罪を犯すこともあえて黙認しつつ、その救済を当初から予定したのである。
そのような貴重な自由という能力をいただいた人間としては、神のご意思にしたがい、新に神を愛する機能として自由を正しく行使しなければならないわけである。そのために、自由には責任が伴うことをまず重視しなければならない。英語では責任のことをResponsibilityと言うが、この語はresponse(応答)とability(能力)から成っていると言われ、従って責任とは応答能力のこととも言われるが、それはまさに自由という能力が神の愛に応えるための能力であること示しているのではないか。自由には責任が伴うと言われるのはこの意味に理解すべきであるとわたしは思う。
従って、人間がいただいた自由という能力を正し用いるためには、自分の生き方やひとつ一つの行動が神の愛に叶うかどうかを正し判断し、愛に叶わないものを捨て、叶うものを選び取って実践していくことが求められる。自由に伴う責任とは、まさに選択の責任であることが理解できよう。ただその正しい選択のための一つの基準として、次のことを付け加えておきたい。それは、自由という能力の正しい選択のための基準は「真理と正義」でなければならないということである。
真理とは愛の対象となる神や人間の真の「尊厳」を正しく認めることである。正義とは、愛の対象となる神や人間の尊厳にふさわしい「権利・義務」を擁護することである。そのことは、神に対する礼拝や感謝、贖罪や祈願といった聖なる務めを果し、また人間に対しては、一切の人間を差別することなく、そして、弱者優先の原則のもとに人間的かつ社会的弱者に対する愛を最優先事項として果たすことが、愛の召命に応える自由の責任であると思う。
こうして一人ひとりの人間は、生まれながらにいただいている真の自由、しかし未完成の自由を、正しい選択と正しい行使を通して成長させ、完成していかなければならないのである。このことは、特に子供たちや青少年のしつけや教育、はたまた多様な修行の過程において留意すべき点であろう。