あらためて問う、胎児は人間か

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > あらためて問う、胎児は人間か

あらためて問う、胎児は人間か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2009/05/01/ 00:00]

さる2月、この欄で「オバマ大統領、妊娠中絶を容認」と題した記事を公開したが、これに対していくつかのご意見をいただいた。人工中絶を選択する女性に対する同情と同時に、厳しい倫理を押し付けて自分は何もしないとして教会を非難する言辞が中心であったように思う。人工妊娠中絶についてこれを容認する意見があることはわたしも十分承知しており、あえて反論するつもりはないが、もう少し教会の立場を説明しておきたいと思う。

人工妊娠中絶を容認する議論の中で、胎児のいのちの尊厳と権利についての観点が欠けているように見える。つまり、胎児を人間と見ていないということである。この風潮は今日の社会では支配的である。たとえば、ここ数年来、国家の安全保障に対して人間の安全保障が強調されるが、この人間の安全保障の主張の中で胎児の安全保障が完全に抜けている。この点で、教会は胎児を人間として捉え、その尊厳と権利を、次のように、明確に主張している。

「卵子が受精した瞬間から父親や母親のそれとは異なる一つの新しい生命がはじまる。それは、自分自身の成長を遂げるもう一人の人間の生命である。受精のときにすでに人間となるのでなければ、その後において人間となる機会はあり得ないであろう。この不変かつ

明白な事実は現代遺伝学の成果によって裏づけられている。すなわち、現代遺伝学によれば、受胎の瞬間から、受精卵の中にはその生命体が将来何になるのかというプログラムが組み込まれていることが証明された。それはつまり、受精卵は一人の人間、しかも特定の特徴をすでに備えた一人の個人となるということを意味する。受胎のときから人間の生命は冒険を始めるが、それが持つさまざまの偉大な能力は、発揮されるまでに時間がかかるのである」(教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』第1章)。

要するに、一人ひとりの生命は受胎の瞬間から始まっているのであって、従って、一つの人格的存在がすでにそこにあるから、人工妊娠中絶は倫理的な悪として退けなければならないのである。このことを確認するために、もう一つの観点を明らかにする必要がある。それは生命の神秘についてである。

「すべての人間の生命は、受胎の瞬間から絶対的に尊重されるべきものである。なぜなら、この地上において、人間だけが、神が「それ自体のために望んだ」(現代世界憲章24)存在であり、また各人間の霊魂は神によって「直接に創造された」(ピオ12世)ものであり、そして全体としての人間は創造主の似姿であるからである。人間の生命が神聖であるのは、それが初めから「神の創造の業」(ヨハネ23世)の結果であり、また、その唯一の目標である創造主と永久に特別な関係を保ち続けるからである」(同上教書序文)。

このように見てくると、一人の人間の生命を生み育てる父親や母親の使命がいかに偉大であり、神聖であるかがわかる。それゆえ教会は、この偉大で神聖な使命を、たとえどのような試練があろうと、愛と喜びをもって果たすよう両親を励ますのである。また、そのために、今はたいてい社会福祉法人を通してであるが、教会のイニシャチブによって種々の社会福祉事業が行われ、不幸な女性や子供を助けてきた。特に、特別な事情のもとに妊娠し、中絶の誘惑にさらされる女性たちを助けるために意を用いて来た。コルカタの福者マザー・テレサは、「安心して産んでください。わたしたちが育てますから」と言ったというが、これは教会の心を代弁したものとみてよかろう。事情ゆえに公表されていないが、中絶への誘惑や圧力から女性を守り、安心して子が産める駆け込み寺のような受け入れ施設があることを明らかにしておこう。「教会は厳しい倫理を突き付けて、自分では何もしない」という非難は決して当たらないのである。

最後に、もう一言付け加えよう。多くの場合、妊娠中絶は女性の本心ではあるまい。それこそ男性社会の暴力ではないのか。それは、正義の戦いだと言いながら、実際には多くの無実の市民を殺め、母親から子供を奪う戦争やテロと何ら変るまい。どのような事情であれ、妊娠中絶を是認し、奨励することは、わがままな人間の都合のために安易に殺人や児童虐待の風潮を助長することになるだろう。「避妊に失敗したら、中絶という方法もあるよ」などと教える性教育は、教育というよりは殺人教唆の大罪といわねばならない。

要するに、胎児の生命の神聖な尊厳と基本的な人権を認め(真理)擁護する(正義)とともに、尊い命を産み育てる母となるべき女性を保護することは、人間の安全保障の原点であり、要諦であることを、あらためて認識せざるを得ないのである。