「命の私物化」という語を読んで
カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/05/20/ 00:00]
「命ってちょっとの間与えられているというか、誰もが借りているだけ、という気がしているんですね。だから、いつか返す時が来る。ところが、ついこれは俺の命、って所有化しちゃうでしょう人間は。命を私物化すると「返さーん」とこだわりがでてくる」(文芸春秋誌3月号)
これは、鳥取でホスピス「野の花診療所」を経営しているホスピス医・徳永進氏が対談の中で述べた言葉である。この診療所で「三、四日に一人が亡くなる」人の死を看取ってきた医師の言葉で、自分の死を穏やかに受け止める、いわゆる「死の受容」に関係しての言葉ではあるが、「命の私物化」という言葉を初めて見たわたしは、きわめて重大で人生の根幹にかかわる言葉のように思えた。文字どおりに読めば、自分の命に対しても他人の命に対しても、まさに「生殺与奪」の権利を主張する響きがある。
実際、文明開化の現代社会においても、実に様々な命の尊厳を損なう現象があふれている。個人的な自殺や殺人から内戦やテロ、対テロ戦争に至るまで、毎日の新聞・テレビに報道されない日はないほどである。言うまでもなく、命はいただいたたまものであり、これを大切にしなければならないと感じている人がほとんどであろうが、それでもなお、日常生活において自分の都合で勝手気ままに生きるのも「命の私物化」と言えないだろうか。
あるフランス人作家は二回の世界大戦をはじめ、ホロコウストや共産革命や粛清などで大量の人の命が破壊された20世紀を「野蛮の世紀」と呼んだが、野蛮な時代は今世紀も続いていると言えないだろうか。こうした野蛮世界において、もっとも唾棄すべきは最近ほとんど毎日報じられる「児童虐待死」である。もっとも無抵抗で親に依存しきっているわが子を殺すことほどに野蛮な行為はあるまい。なぜこうなるのだろう。去る「子どもの日」の新聞の論説を見ても、わが子を死にいたらしめる児童虐待の直接の原因は様々だが、根本的には命の私物化でしかあり得ない。こうした人命軽視の風潮は相当深刻に広がっているとみて間違いはあるまい。
従って、子ども命を守るためのセーフティネットの構築など国への要望の数々は当然ではあるけれど、それだけでは問題は解決しない。やはりここにはもっとラディカルな解決法を模索しなければならないだろう。つまり、それは第一に、命の与え主を特定し、第二に、いただいた命の使命や目的を確認することであろう。
第一の点であるが、人間の命は天地の創造者である神からのたまものであって、人間の命の最終的な権利は神にのみ属するということである。『カトリック教会のカテキズム』は述べる。「人間の生命が神聖であるのは、それが初めから神の創造の業の結果であり、また、その唯一の目標である創造主と永久に特別の関係を保ち続けるからです。神のみが、生命の初めから終わりまでの主です。たとえどんな状況にあったとしても、無害な人間を意図的に破壊する権利を主張することは、誰にもできません」(n.2258)。だから、神の権威を侵すことなしに害することができないほど、人の命は神聖であり、不可侵の尊厳と権利を有している。
第二の点であるが、人間の命は召命であると言われる。神は人間を「神の似姿」として「男と女」に造られた(創世記1,26,27)。前教皇ヨハネ・パウロ2世はこれを次のように説明している。「神はご自分の似姿として人間を造られた。すなわち愛によって愛のために人間を造られたのである。神は愛であり、ご自分の中で人格的な愛と一致の神秘を生きておられる。神は男女の人間性に愛と一致の召命を与え、そのための能力と義務を与えられた。従って、愛は人間本来の根本召命である」(使徒的勧告『家庭』11)。愛と一致の神秘を生きておられる神の似姿である人間は、互いにに愛し合って一つになうことが生まれながらの召命(vocatio)であり、義務であるということで、実に明快である。
以上の考察から推察される通り、人の命の私物化は命に対する神の権威を否定してその愛を拒絶することに始まる。愛の拒絶というよりも、愛の無知といった方がよいかもしれない。ヨハネの手紙は述べる。「わたしたちが愛を悟ったのは、イエズスがわたしたちのために命を捨ててくださったからです。わたしたちも兄弟のために、命を捨てなければなりません」(1ヨハネ3,16)。第2バチカン公会議は言明する。「キリストは父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(現代世界憲章22)。人間の愛の召命を明らかにしただけではない。自らその愛を完成して、人間の罪によって失った真の愛を人間に取り戻したのである。ヨハネの手紙はそれを指摘しているに違いない。
コメント欄を活用して、対話の機会にすることができればと願っています。