権威はすべて神に由来する

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 権威はすべて神に由来する

権威はすべて神に由来する

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/06/01/ 00:00]

「徳川家康は、全国の覇者となると、やがてカトリックの信仰自体を禁止し、徹底した弾圧を始めた。無論それは「正しい信仰」の擁護のためではなかった。広言していたように「神国」(と言っても、神道と仏教との習合が前提である)を侵略から守るためばかりでもなかった。おそらく、彼らの支配にとってキリスト教の教義が政治的に危険だと考えたからである」

これは、最近読んだ渡辺浩著『日本政治思想史』52㌻の一節である。徳川幕府がキリシタンを徹底的に弾圧したのは歴史的な事実であるが、弾圧の理由についてはいろいろと説明されてきた。これもその重要な理由の一つであり、「御主ぜずきりすとは我等が真の御親、真の主君にてまします」などと教えるキリシタン信仰を、「「一向一揆を体験した地上の大主君とその配下が危険と感じるのも無理はなかった」(上記著者)。ただ、ここにはキリシタン弾圧の理由についてではなく、およそ権威というものが、どこから、また、何のために与えられるものなのかという問題に限って考えてみたい。これは今日の問題としても大いに参考になるからである。

ここにいう権威とは、人に命令してこれに従うように強制する権利のことで、『カトリック教会のカテキズム』は次のように教えている。「権威とは、人びとに法と命令を与え、受けた人びとはそれに従わなければならないような、個人ないし団体の資格を言います」(n.1897)。そして、「すべての人間共同体は、自らを統御する権威を必要とします。権威は人間の本性に基づくもので、市民社会の統一に必要なものです。その役割は、社会の共通善を最大限に保証することです」(n.1898)と述べている。人間共同体の一致と共通の利益を守るために権威を必要とすることは人間本性の求めるところであることが明白に語られている。

問題はその権威がどこから来るかである。いうまでもなく、人間は本質的に互いに平等であって、「人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」である。だから、人間は誰も他人に命令してこれに従うように強制することはできない。そうなのに「権威」が必要であるとすれば、それは人間以外から来なければならない。となれば、どうしても権威というものは、人間本性を創造した神から来なければならないことになる。教会は教える。「倫理的秩序のために必要となる権威は、神に由来するものです。『人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らうものは、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身にさばきを招くでしょう』(ロマ13,1-2)」(カテキズムn.1899)。

こうした教会の教えによれば、キリシタン信仰を受け入れることによって徳川幕府の権威は確かな根拠を与えられて益々堅固になったであろうに、キリシタン信仰のなんたるかを知らなかったばかりに、不当にもキリシタン弾圧に無用の苦労を重ねることになってしまった。それに、人間の高慢な支配的精神が無数の人びとの基本的人権を侵して、世界の顰蹙を買うことになってしまった。

現在、わが国でも、世界の国々と同じように、民主主義と国民主権の名のもとに国家の権力、つまり公権の権威が軽んじられ、気まぐれな世論や反対勢力の暴挙によって一国の政治が停滞する現状を嘆かざるを得ない。一方、公権を担う人びとの使命と責任を、神の前にしっかりと自覚してもらうことの大切さを身にしみて感じてもいる。聖書はいう。「イエズスは彼らを呼び寄せて仰せになった。あなたたちも知っているとおり、異邦人の間では、頭と見られている者がその民を支配し、また偉い人が権力をふるっている。しかし、あなたたちの間では、そうあってはならない。あなたたちのうちで偉くなりたい者は、かえってみんなのしもべとなり、また、あなたたちのうちで頭になりたい者は、みんなの奴隷となりなさい」(マタイ10,42-44)。ちなみに、大臣のことを英語ではMinister というが、それは「召使」の意でもある。