“禍を転じて福となす”

“禍を転じて福となす”

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/06/15/ 00:00]

宮崎県の口蹄疫が、この執筆時にもまだおさまらない。何万何千という大量の牛や豚が殺処分されるなど、前代未聞である。畜産農家の苦渋を思いやりながら、知恵と勇気をもってこの危機を乗り越えるよう祈ってやまない。

そもそも人生には実に様々な災難が待ち構えている。望むと望まないにかかわりなく、あらゆる天災や人災が時として耐えがたいほどの苦痛を伴って押し寄せてくる。人びとはしばしば「神も仏もあるものか」と神仏を呪い、「全善でいつくしみ深い神など存在しない」と無神論に走る者も歴史から消えたことがない。

確かに、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めてよかった」(創世記1,31)とある通り、創世記に語られる天地創造の物語を見る限り、すべては完璧であったというべきであろう。にもかかわらず、人生には苦があり、悩みが尽きない。それはなぜか。キリスト教の答えは次のとおりである。

第一に、世界は不完全なものとして創造され、人間の協力を得て完成に向うものとされた。『カトリック教会のカテキズム』は言う。「被造界は固有の善と価値を備えていますが、創造主からまったく完成したものとして造られたのではありません。神が定めた、これから到達しなければならない究極の完成に『向かう途上』にあるものとして造られました。神がご自分の被造物をこの完成に向って導かれる計らいのことを摂理と呼びます」(n.302)。神の摂理は創造の第二原因として人間の協力を求める。カテキズムは言う。「神は、ご自分の計画を実現する最高の主です。しかし、その実現のために、被造物の協力もお求めになります。それは弱さのしるしではなく、全能の神の偉大さといつくしみのしるしです。実際、神は被造物に存在を与えられるだけではなく、被造物が自ら行動し、互いに原因および出発点となり合って、ご自分の計画の達成に協力する資格をお与えになるのです」(n.306)。

然るに、人間は、神にこたえるためにいただいた自由を乱用して罪を犯し、世界の秩序は壊された。この罪を原罪というが、その結果についてカテキズムは言う。「(世界の)調和は破れ、肉体に対する霊魂の制御力は弱められました。男と女の緊密な交わりには摩擦が生じ、両者の関係は欲望と支配に左右されます。被造界との調和も断ち切られ、見える被造界は人間にとってなじみのない、敵意あるものとなってしまいました。・・・ついに、死が人類の歴史の中に入ります」(n.400)。従って、世界の完成に協力する人間の努力は様々な困難を伴うものになった。

では、なぜ神は、悪の存在を許容されるのか。それは、神が悪から善を引き出すことがお出来になるからである。カテキズムは言う。「この世に災いや苦しみがあるわけは、神がそれらの災いや苦しみから善を生じさせ、この世の苦難を通して人を永遠の幸福にお導きになるためです。特に、イエス・キリストの死と復活によって、苦しみと死の意味は解明され、苦しみと死は、人びとを永遠の生命と幸福に導くものとなりました」(改訂版・カトリック要理10)。聖アウグスチノも言う。「全能の神は、最高に善であるので、悪から善を引き出すほどの力ある善い方でなかったとしたら、その業のうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずです」。

従って人間は、力に限界があるとはいえ、困難と闘いながら全力を尽くして神のご意思に協力し、よりよい世界を目指して働くのである。そして世界の完成は、父なる神に遣わされた御子キリストによって、一切の悪の根源である人類の罪をあがない、その約束により、キリスト再臨の日に、信じる人びとをからだの復活を通して至福の命に導き、世界もまた「新しい天と新しい地」(黙示録21,1)となって完成されるのである。

このように、「禍を転じて福となす」という人類の悲願は、父なる神の計らいにより、救世主キリストを通して完全に実現される。これがキリスト者の信仰であり、希望である。だから、人生に悩み苦しみは絶えないけれど、忍耐強くこれに耐え、信頼と希望をもって生き抜くことができるし、生き抜かなければならないのである。また、この観点に立てば、キリストの弟子たちの次の心境がよくわかる。「使徒たちは、み名のために、辱められるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った」(使徒行録5,41)。