排他主義から包括主義への転換

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排他主義から包括主義への転換

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/08/01/ 00:00]

1962年10月11日にバチカンの聖ペトロ大聖堂で開幕し、4年後の1965年12月4日に閉幕した「第2バチカン公会議」は、教会自身と世界全体に大きな影響と変化をもたらしたが、わが国ではそれほどでもなかったようだ。カトリック教会に対する無知や偏見が相変わらず多く見られるからである。

教会の自己刷新を目的に開催された第2バチカン公会議(以下公会議)は、聖書と聖伝の原点に立ち戻って、二千年の間に積もった垢を落とし、合わせて人類の進歩に叶う仕方で自己を現代化しようとした。公表された16の公会議文書はその全容を物語っている。ここにそのすべてを語るわけにいかないので、そうした中から、「個の確立」ということと、「多様性における統一」ということの二点を取り上げてみたい。

「個の確立」とは、知恵と自由を備えた独立主体としての人間人格の理解が進み、その自覚もまた高まったというのが世界の共通理解であって、その点に注目した公会議は、教会においても教会外に対しても、言葉は悪いが人間を「大人扱いした」ということができる。つまり、人間人格の自由と責任を尊重する姿勢を明らかにしたわけである。そこから導き出された成果の一つは「信教の自由」の宣言である。そこには、信仰を強要した数々の過去の過ちへの反省が込められている。ヨハネ・パウロ2世は書いている。

「教会の息子や娘たちが悔い改めの精神によって振り返らなければならない、もう一つの痛ましい歴史の一章は、何世紀にもわたって、真理への奉仕に際しての不寛容、さらには暴力の行使を黙認してきたことです」(使徒的書簡『紀元2000年の到来』35)。

そして公会議は宣言する。「神に対する人間の信仰による応答は自由意志によるものでなければならない」、「宗教の問題においては、人間からの一切の強制が除かれることが信仰の性質に完全に一致する」(いずれも、公会議文書『信教の自由に関する宣言』10)と述べ、同時に、真理探究の義務を強調して、「人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を建てるために、宗教に関する真理を探究する義務と権利をもっている」(同宣言3)と述べている。

他方、「多様性における統一」とは、多様な文化や伝統をもつ世界が一つになるときが来たという意識の問題である。教会は長い間ギリシャ・ローマ文化の中で発展してきた関係上、ヨーロッパを中心として世界を見る慣習が一般化していた。それが20世紀なって、ようやく世界が多様な国家や民族、そして文化から成り立っており、その世界が孤立状態から協力一致の国際関係を打ち立てなければ互いに生きていけない新しい時代が到来したことが強く意識されてきた。そのような状況の中で開かれた公会議は、否応なしに、ヨーロッパからではなく、キリストの福音の立場から世界を等距離に見る、文字通り「世界教会」になったことを強く意識したのである。公会議前後の時代、「多様性における統一」という標語が頻繁に使用されていたことを、わたしはあらためて思い出している。

公会議は、こうした状況と要請の中で、典礼の国語化など、様々な刷新の方針を打ち出したが、ここで特に指摘したいのは、諸宗教に対する「排他主義」から「包括主義」への大転換である。古来、教会には「教会外に救いなし」(extra Ecclesiam, nulla salus)

という標語が誤解されて、洗礼を通して見える教会に所属しなければ救われないと信じられ、強制的にでも人びとを改宗に導くという事態が生じた。その反省から、信教の自由とも相まって、排他主義から包括主義への転換となった。つまり、「キリスト外に救いなし」という、キリストによる救いの唯一性と普遍性を放棄することなく、教会外でも人びとがキリスに出会う機会を神は備えてくださると教会は確信したのである。

この転換とともに、教会の宣教活動において「インカルチュレーション」(inculturation)という新語が重要視されることになった。信仰の「文化内開花」と訳されているようだが、わたしは単に「文化の福音化」でもよいと考えている。この新語には、多様な文化と、その背後ないし根底にある諸宗教への敬意と尊重の姿勢があることは明らかである。

教会はいつも歴史の中にあって歴史とともに発展してゆく。そして、「教会は常に刷新されなければならない」(Ecclesia semper reformanda)という標語を念頭に、「キリストにおいて世界を一つにする」(エフェゾ1,10参照)という宣教の使命を堅持していく。しかし、その活動は、人間人格の自由と責任を尊重しつつ、すべてをキリストに秩序づけてこれを抱擁しようとする「包括主義」の立場で遂行される。