人は政治だけで生きるのではない

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 人は政治だけで生きるのではない

人は政治だけで生きるのではない

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/08/15/ 00:00]

8月15日の終戦記念日を迎えるにあたり、65年前のあの日を複雑な思いで思い出している。戦争終結を告げる“玉音放送”のことを聞いたのは、避難先の長崎郊外の修道院であったが、戦争に負けた悔しさと同時に、信仰の自由が来たことの喜びがあった。

わたしの青春時代はまさに戦争の明け暮れであった。三歳の時に満州事変があり、小学3年、9歳の時にシナ事変が勃発し、中学に入学した13歳の時に太平洋戦争が始まり、中学を繰り上げ卒業をした17歳になったばかりの年に戦争が終わった。わたしの青少年時代は、ある意味で、軍国主義一色であったといってよい。

しかし、わたしの青少年時代はキリスト教信仰の日々であったこともまた事実である。わが家は一応忠実なカトリックであったから、幼児洗礼を受け、朝晩の祈り、食前食後の祈り、そしてお告げの祈りを欠かすことのない家族生活の中で神を体験し、小学に入ると同時に教会の要理教室に通い、初聖体から堅信までの入信の秘跡を済ませ、中学進学と同時に長崎の小神学校で司祭への道が始まった。

わが国では特異なこの環境の中で、特に心の葛藤はなかった。互いに愛し合い、世界平和のために貢献しなければならない信仰の要求と、善良な国民として国策に従い、戦争の勝利を祈って協力する国民の義務との間で、子どもながら、矛盾を感じることはなかったのである。ただ、神社参拝を強要され、カトリックに対する非国民呼ばわりされ、ある神父たちがスパイ容疑で拘束され、敵性国の外人宣教師たちが逮捕収容されるなど、キリスト教に対する官憲の仕打ちに疑問を感じながらも、真の神はキリスト教の神であって、天皇も単なる神の被造物にすぎないことを確信していた。

終戦後、さまざま窮乏の中にあっても穏やかな生活が戻り、戦前の様々な事情が明るみに出るにつれ、侵略的軍国主義の終焉と信仰の自由の到来を見て、わたしたちキリスト者のためばかりでなく、日本国民全体にとっても、戦争に負けて本当によかったという思いが次第に募って行った。そして、無差別大量虐殺の原爆を憎み、人殺しを旨とする戦争を否定しながらも、戦争の真の原因は人間の罪であり、敵味方の違いを超えて罪を悔い、互いに赦し合って平和を追求しなければならない責任を痛感していた。その意味で、原爆は世界平和のための犠牲として甘受した。これが「祈りの長崎」の真意であった。

キリストは旧約聖書を引用して言われた。「人はパンだけで生きるのではない。神から出るすべての言葉によって生きる」(マタイ4,4=申命記8,3)。この聖句は、「人は政治だけで生きるのではない。信仰によって生きるのだ」と言い換えてもよい。パンは生活必需品の象徴であり、従って政治のいわば基本であるからである。キリストはまた言われた。「まず、神の国とその義を求めよ。そうすれば、これらの必要なすべてのものも加えて与えられる」(マタイ6,33)。神の国とその義、すなわち神の助けと人間の良心的な協働があれば、世界中のみんなが平和で豊かな生活を保障される。世界には、すべての民が豊かに生きるために必要なすべてのものが創造主なる神によって用意されているからだ。

しかし、世界には神の国とその義に反するイデオロギーがあまりにも多すぎる。国益を至上命令として世界の財貨を奪い合い、争いになれば経済制裁などという国民の生活を脅かす愚策によって反発や敵意を煽り、戦争やテロを引き起こす原因を作ってしまう。わが国の政治を見ても、政治家や世論は相手の粗さがしと足の引っ張り合いばかり、真に国民の生活と幸福を願う真摯な議論は見られない。かてて加えて、マスメディアは偏見と独断に満ちた解説や言論が多すぎる。まるで政治の混乱を意図しているかのようだ。文芸春秋8月号を読んでいたら、ある対談で政敵とはいえ「小沢一郎は悪魔だ」と言ってののしる自民党政治家がいた。犯罪人としての判決もなく、まして告発もされていない人を悪魔呼ばわりするなど、ひどい話だ。そんなことより、もっとまじめな議論を巻き起こし、真に真理と正義と愛を探究し、もって自由で平和な世界の建設に貢献できるメディアになれないものか。価値観の多様化や相対化がその極に達した感のある現代、神の言葉に照らされた新しい情報秩序を構築することは不断の刷新課題である。換言すれば、メディアの霊性の問題である。

奇しくも8月15日は聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し、キリストの平和の福音をわが国にもたらした記念の日である。あのとき、彼は叫んでいた。「人全世界をもうくとも、もしその魂を失わば何の益かあらん」(マタイ16,26:ラゲ訳)。人を本当に生かす魂はパンではなく神の言葉であるという宣言である。愛するわが国の人びとが、「人は政治だけでは生きられない」ことを悟り、人間の幸せと世界平和を望みかつ配慮される神に立ち返ることを祈るや切である。