良心の延長線上にあるキリスト教

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 良心の延長線上にあるキリスト教

良心の延長線上にあるキリスト教

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/09/15/ 00:00]

先日のカトリック新聞にも、わが国におけるカトリック人口の停滞についての意見が見られた。その意見とは別に、一つの観点をここに提起したい。

それは、キリスト教への誤解がいまだに根深いという点である。例えば、400年にわたって醸成された邪教観がいまだに抜けていない。キリスト教宣教師はヨーロッパ植民地主義国の手先であり、キリスト教はわが国を滅ぼす邪教である、という誤解である。17世紀の初めごろ、密入国したカトリック神父シドッチを尋問した新井白石が、いわゆるキリシタン奪国論の誤解を解いたにもかかわらず、その後もその誤解は執拗に日本人の心に残った。

これと関連して、キリスト教はヨーロッパの宗教であり、日本と日本人にはなじまない、という誤解もまた決して小さくない。キリスト教がパレスチナ、つまりアジアで生まれたにもかかわらず、である。この誤解には、多神教的な日本の宗教観のせいもあるかもしれない。

こうした思想的かつ心理的な背景の中で、意外と気づかれていないのが、表題に示した、「万人に普遍的な良心の声の延長線上にキリスト教がある」という視点である。そしてこの視点は、それぞれの文化的、宗教的背景は異なっても、人間の本質においてはすべての人間が同じ人間であり、共通普遍の良心によって生きているという事実に通じる。では良心とは何か、またそれはどのようにキリスト教につながっているのか。

「人間は良心の奥底に法を見出す。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、つねに善を愛して行い、悪を避けるよう勧め、必要に際しては『これを行なえ、あれを避けよ』と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳なのであり、また人間はそれによって裁かれるのである」(現代世界憲章16)。

簡略に言えば「良心の声は神からの心の声である」という、第2バチカン公会議のこの宣言は、すべての人間に共通に適用されるが、しかし、日常の具体的な良心の指示は必ずしも同じではなく、人によって異なることが経験によっても明らかである。それはなぜか。それは、根本的には人間性の弱さと限界により、あるいはその人の属する文化や宗教の影響により、そして人間の犯す罪の習慣などによって左右されるからである。暗くなった良心、迷っている良心、間違っている良心などがあり得るわけである。

キリスト教は、それらの良心の迷いや間違いを、神が啓示した真理によって照らし、矯正し、さらにはこれを高揚し完成するのである。手初めは、旧約聖書に出てくる「神の十戒」である。シナイ山でモーセに現れた神は「十戒」を授けた。「十戒」とはもともと「十の言葉」“Decalogus”であるが、カトリック教会が採用している文面の日本語訳は次のとおりで、誰の目にも当たり前の良心の声である。

わたしはあなたの神である。

1-わたしのほかに神があってはならない。

2-あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

3-主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

4-あなたの父母を敬え。

5-殺してはならない。

6-姦淫してはならない。

7-盗んではならない。

8-隣人に関して偽証してはならない。

9-隣人の妻を欲してはならない。

10-隣人の財産を欲してはならない。

キリストは旧約のこの律法を完成するために来たと言われる。「あなたがたは、わたしが律法や預言者の教えを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのである」(マタイ5,17)。キリストは愛のおきてによって旧約のおきてを総括し、成就する。「すべての律法と預言者の教えは、この二つのおきて(神への愛と隣人への愛)に基づいている」(マタイ22,40)のである。そして、キリストの使命を引き継ぐ教会は、時代の進展とともに複雑になった現代社会において、時のしるしを識別しながら、神の法の理解を深め、必要に応じてこれを解き明かすのである。こうして、キリスト教は現代社会に必要な「良心」となり、すべての人がキリスト教とは無関係ではあり得なくなっている。