正義とは何か

正義とは何か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/10/15/ 00:00]

このところ、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の白熱教室の評判が高い。その日本における講義の一端をテレビで見たが、なるほどと思った。教授の著書『これからの「正義」の話をしよう』も30万部を超えるベストセラーになっているという。なぜ今正義論が評判を呼ぶのだろう。

ここに言う正義とは、簡単に言って「人と人との正しい関係」を指していると思うが、互いの利害が複雑に絡み合う人間関係を具体的に解明し、正常化するために、欧米とわが国とではかなりの違いが想定される。義理人情で心情的に解決しようとするわが国の傾向に対して、欧米では正義論をもって合理的に解決しようとする。理屈でもって白黒をはっきりさせようとする欧米の方法を日本人はあまり好きではないのではないか。

にもかかわらず、サンデル教授の正義論がわが国でもこれほど騒がれるのは、日本人も、もともと理性的かつ合理的な民族であったからではないかと思う。ザビエルが日本人に接したとき、日本人の知識欲の旺盛なのを見て驚き、物事の合理的な解釈、例えば、気象などの自然現象の科学的説明を日本人が喜んで聞き、満足したという話がザビエル書簡にも記されている。また、キリスト教が信じるに値する合理性をもつことを理解し、これを受け入れて洗礼を受ける人も少なくなかったと言われる。

加えて、現行憲法の人権思想など、正義の問題と深くかかわる人権問題への日本人の関心は決して小さいものではない。しかし、残念ながら、大人の問題として正義が語られることが少なく、教育においても適切な人権教育ないし道徳教育が深められなかったという事情があるのかもしれない。それだけに、サンデル教授の白熱教室が新鮮味をもって迎えられた理由ではないか。

カトリック教会では、社会教説において重要な問題として正義や人権が教えられる。カトリック要理においても然りである。キリスト教自体が、罪びとである人間の義化がその核心をなす。つまり、罪によって壊され失われた神と人、人と人の間の秩序(正義)が、人となった神の子キリストのあがないによって回復されるという福音である。

では、正義とは何か。それは、ペルソナとペルソナとの間の正しい関係であり秩序である。この秩序は各ペルソナの尊厳と権利・義務に基づいて構築されるものであって、従って、ペルソナの基本的な権利を尊重して擁護することが「正義の徳」である。ここに言うペルソナとは、神のペルソナ(神格)と人間のペルソナ(人格)の両方を意味する。そこで、『カトリック教会のカテキズム』は述べる。

「正義とは、神と隣人とに帰すべきものを帰すという一貫した堅固な意思によって成り立つ倫理徳です。神に対する正義は『敬神徳』と呼ばれます。人間に対しては、各自の権利を尊重させ、人間関係の中で各個人と共通善に対する公平を促進し、その調和を確立します。…」(n.1807)。

要するに、神のものは神に返し、人のものは人に返すということである。残念ながら、神に返すべき「信仰と従順」が返されていない現実がある。自由を乱用する人間の傲慢と不従順によって、「敬神」の義務がないがしろにされ、世界の世俗化がますます進行しているのではないか。神に対する不信仰と不従順がすべての不幸の根本原因である。

従って、人間に対する正義もしばしば混乱し、人に帰すべき善が返されていない。何よりも、共通善の主たる要素である富の配分が損なわれ、少数の富裕層が世界の富の大半を独占し、多くの人が貧困とそれに伴う不幸な運命を担わされているという現実がある。世界の富は人類共有の遺産であり、人間の労働と公平な配分によってすべての人に帰すべきものであるが、富の公平な配分を任務とする公権は、しばしば経済成長を優先して、多くの人を不幸にしている。わが国でも、世界第二位(今は第三位か)の経済大国として大金持ちになりながら、貧富の格差が拡大し、貧しさに泣くは増えている。これは、明らかに富の所有が甚だしく偏っているためで、従って、経済成長より富の公平な配分こそ正義実現の早道でなければならない。

いまこそ、「正義とは何か」を徹底的に探究しなければならない。サンデル教授の投げかけた課題は、その意味でまさに時宜を得たものと思われる。