経済成長は多くの人を不幸にする?
カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/11/01/ 00:00]
世界第二位の経済大国を誇ってきた日本で、どうして貧富の格差が拡大し、愛の絆をズタズタにする無縁社会が生まれたのか。相変わらず、世論も政権も経済成長、景気回復の大合唱だが、もしかして経済成長は多くの人を不幸にする原因ではないのか。
従来、「企業が業績を伸ばして経済成長が進めば、国民全体がその恩恵にあずかって裕福になる」と言われてきたが、バブル経済のときはともかく、バブルがはじけて低成長時代になった現在、この成長神話は崩れ去ったのではないかと思われる。事実、二年前のリーマン・ショックに始まる世界的な経済・金融危機が証明した通り、制限なき経済成長は一部の富裕層を利するだけで、多くの人が職を失い、貧困に苦しむ事態を引き起こすことは明らかである。新聞報道によれば、2009年、世界一位の経済大国・米国の生活困窮者が史上最悪の4360万人に上り、貧困率も14・3パーセントに悪化したという。
そればかりではない。抑制なき経済成長は環境破壊を拡大させ、資源の枯渇をもたらすと言われる。30年も前、「成長の限界」に関するローマ・クラブのレポート(1972)は世界を驚かせたが、確かあのとき、中国がアメリカ並みの消費社会になれば世界の資源は枯渇する、と言われたのを思い出す。今の中国の経済成長や資源外交を見るとき、ローマ・クラブの警告が無意味ではなかったことを感じる。
前教皇ヨハネ・パウロ2世は1987年12月30日付の回勅『真の開発とは』(SOLLICITUDO REI SOCIALIS)において、「人間の自由になる資源や能力の相当部分が倫理的理解によって、また人類の真の善を志向する方向づけによって誘導されない限り、これら(経済的な開発・発展による財やサービスの蓄積)は容易に人間を抑圧し、人間に害を与える存在と化す」(n.28)。と警告している。
これに続いて、回勅には次のような言葉が出てくる。「過剰開発」、「所有の奴隷」、「資源の無駄遣い」、「消費主義」、「欲求不満」を掻き立てる「宣伝広告」などなど。そして言う。「開発というのは、他の被造物を、そして産業の生産物を、単に利用し、支配し、無差別に所有するところにあるのではありません。真の開発は、所有や支配や利用を、神の似姿である人間に、そして人間の不滅への使命に従わせるところに存在するのです」(同29)。
これは、「人間不在の開発から人間尊重の開発へ」の転換を求める提言である。経済成長は利己的な金儲けのためではなく、あくまで人間全体の幸福のためでなければならないとの警告である。そこで教皇は言う。「真の開発・発展の土台には、神への愛、隣人への愛が宿っていなければなりませんし、その開発は、個人と社会の関係の改善に寄与するものでなければならないということです。これが、パウロ6世がしばしば述べた『愛の文明』というものです」(同上33)。
これはまさに「物質文明」から「愛の文明」への転換を求めるものである。しかし、この大転換を成し遂げるには、私有財産権の限界と、世界の富の普遍的な使用目的について理解を深めなければならない。つまり、「財貨の私有は人間の尊厳と自由を保障する」(『カトリック教会のカテキズム』2042)ために必要だが、私有財産権は世界の富が人類全体のための普遍的使用を目的とすることを前提とした権利であって(カテキズム2403)、必要があれば、自分の財産をいつでも他人のために役立てなければならない(カテキズム2044)。
この原則に従えば、際限なく事業を拡大して利潤の最大化を求める経済第一主義(現在は新自由主義、市場原理主義、小さな政府などとも呼ばれる)は、みんなの共有財産を独占し、寡占する不正なイデオロギーだと言わなければならない。このような成長路線を転換して人類全体の共通善を実現するために、公権の果たすべき役割は重大である。「政治をつかさどる者は、所有権の正しい行使を共通善のために規制する権利や義務を持っています」(『カトリック教会のカテキズム』2406)。ヨハネ・パウロ2世は言う。「(経済成長がもたらす)種々の障害を除去し、誤ったメカニズムを克服するために、そして新たに正義にかなった方法、人類に共通する善を足場とするやり方を導入するには、強力な政治的意思が必要とされます」(上記回勅35)。
あのリーマン・ショック後、世界経済のシステムを変えなければならないという議論もあったが、必ずしも世界の世論を形成するまでには至っていない。「脱成長」の「新しい経済学」(たとえばセルジュ・ラトゥーシュの理論)も次第に注目されてはいるが、これとて各国政府の新しい経済対策の決め手とはなっていない。
キリストは言われる。「金持ちが天の国に入るのは難しい」(マタイ19,23)。利己的な金儲け主義は多くの人を不幸にするばかりでなく、自らの救いを危うくする。