基本的人権の根拠と目的は何か

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基本的人権の根拠と目的は何か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/11/15/ 00:00]

国際連合(国連)は1948年12月10日、30カ条から成る「世界人権宣言」を総会で採択したが、これを記念して、国連第6回総会(1950年)は12月10日を「世界人権デー」とした。わが国ではこの日に先立つ一週間を「人権週間」としている。

さる10月8日、ノルウェーのノーベル小委員会がノーベル平和賞に中国の民主活動家劉暁波氏を選んだことで話題になったが、人権問題は単に中国における民主化ばかりでなく、世界中で想起して推進すべき重大な問題であるので、及ばずながら、二回にわたって論じたいと思う。第一回目は「基本的人権が由来するその根拠と目的は何か」である。

さて、基本的人権と言えば、もはや世界的に認められたことであるが、しかし、この基本的人権がよりどころとしている普遍的根拠や、その目指している目的については、必ずしもすべての人が共通に同意しているとは思われない。劉氏の平和賞受賞について異を唱える中国指導層の反応を見ればそれがよくわかる。わが国の現行憲法は国会で承認され、広く国民に支持されているのは当然としても、その発布に当たって署名した閣僚の一人・文部大臣田中耕太郎は、憲法の精神はキリスト教的であると述べていたが、新憲法起草のルーツからすればその通りだろう。だが、多様な価値観によって多様に解釈され、人権主義を掲げながら多くの人権侵害が公然とまかり通ることにもなる。そこで、あらためて考えてみよう。

1-人権の前提は超越的な人格(ペルソナ)の尊厳

基本的人権の根拠が「人格の尊厳」にあることは言うまでもない。人間がその尊厳にふさわしく生きて自己を実現するために必要なすべての要件を満たす権利が基本的人権であるが、人格の尊厳とは一体何であるかについての理解がまず問題となる。もしその尊厳が単に生物進化の頂点にあるとするだけなら、生物進化はつまるところ適者生存のことであり、従って容易に弱肉強食に走る恐れがあるから、貧富の差を始め、様々な人間格差を容認することになってしまうだろう。あるいは、封建時代によく見られ、また現代において独裁的な全体主義国家において見られるように、人の尊厳もその権利もお上、つまり国家権力から与えられたものとするならば、為政者の気まぐれと都合によって基本的人権を制限することがあっても不思議ではなくなる。

その点、キリスト教的立場においては、人間の尊厳は天与のもの、つまり、神の似姿として造られ、神の子とされて至福のいのちにあずかるよう呼ばれた者としての尊厳であり、従って、不可侵の尊厳、如何なる人によっても如何なる人間的権力によっても奪われることのできない尊厳であるという意味になる。人間の尊厳が超越的な尊厳と言われるのは、一人ひとりのバックにと言うよりは、一人一人の中に神がおられるという意味になる。キリストは言われた。「これらのわたしの兄弟、しかも最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしたのである」(マタイ25,40)。

2-すべての人間は本質において平等

「人間は、本性においては平等であり、遇有的資質においては差異がある」                                  (社会綱領)という言葉が強く心に残っている。まず「尊厳の平等」について、『カトリック教会のカテキズム』は言う。「人間は本質的には、人格としての尊厳とそれに由来する人権という点では平等です」(n.1935)。そして『現代世界憲章』から引用する。「基本的人権に関するすべての差別は、それが社会的差別であろうと、文化的差別であろうと、あるいは性別・人種・皮膚の色・地位・言語・宗教に基づくものであろうと、神の意図に反するものであり、克服し、排除しなければなりません」(n.29).

さらに言えば、現実の生活の中に、様々な人命軽視や人権侵害が病魔のように広がっている事実に注目しなければならない。受精卵の操作乱用、人工妊娠中絶、児童虐待や尊属殺人、いじめや校内暴力、性商品化される女性、麻薬に冒される若者、使い捨てにされる労働者、さらには無縁死する孤独者たち、様々な詐欺や暴力、杜撰な年金運営や職権乱用等々、数え上げたらきりがない。なぜだろう。万人平等であるべき人権感覚の欠如である。

3-人間の遇有的資質には差異

次に、遇有的資質の違いに注目したい。諺にも「天は二物を与えず」と言うが、知恵や健康や能力など、人間には人それぞれ違いがある。しかし、違いは人間の本質には属さない。だから、人間の違いは互いの尊厳を損なう理由にされてはならず、また、人間差別の口実にされてもならない。むしろ、人間間の違いは、人間が社会的存在であることのしるしであり、互いに補い合って平等の尊厳を保障するためであることを忘れてはならない。

聖書に言う。「わたしたち強い者は、強くない人たちの弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(ロマ15,1)。自分の持てるもので他人のために与え合うためには、互いの違いを超えるための二心のない純粋な愛が必要である。その意味で個人主義は人類の大敵であり、従って、個性の尊重と個人主義との区別が大切になる。

以上のように考えると、基本的人権は人格の超越的な尊厳に根ざし、万人の平等な幸福を目指すものとして、人類の平和共存の大原則であると同時に、わたしたちが踏み行うべき日常の行動規範でもあることが分かる。個人にとっても公権にとっても、また、自分に対しても他人に対しても、人間尊重は権利であると同時に義務なのである。



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