「信教の自由」の前提は「信教の権利と義務」

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「信教の自由」の前提は「信教の権利と義務」

カテゴリー カトリック時評 公開 [2010/12/01/ 00:00]

世界人権デーにちなんで取り上げたいもう一つの論点は「信教の自由」である。なぜなら、憲法20条にも保障された「信教の自由」とは優れてキリスト教的概念であるが、世間では必ずしもそのように受け取られていないからである。では、信教の自由とはいったい何なのか。

「信教の自由」と言えば、それは「神を信じない自由」だと考えられがちだが、実はそうではない。それは「神を信じるための自由」なのである。なぜなら、すべての人間はその本性上、神に聞き従うよう呼ばれている存在であり、従って、人間は皆、誰にも妨げられることなく、自由に神を求めて信じる権利と義務を持っているからである。教会は教える。

「すべての人間は、真理、とりわけ神とその教会に関する事柄についてのそれを探究し、知った上は、それを受け入れ、そして守る義務をもっています。この義務は人間の本性そのものに由来するものです」(『カトリック教会のカテキズム』2104)。

要するに、すべての人間は真理を知るよう知性を与えられているから、何よりも教会の中に神の真理を捜し求め、それが得られたらこれを信奉するよう義務付けられている、というわけである。ここで教会とはキリスト教のことと考えてよいが、では、なぜキリスト教なのか、他の諸宗教ではないのか。その理由は、諸宗教が「自然宗教」でるのに対して、キリスト教は神の啓示に基づく「超自然宗教」であるからである。

わたしたち人間が見えない神を知るためには二つの方法がある。一つは人間理性により、自然を通して知る方法である。聖パウロは言う。「神の永遠の力や神性のような、神についての目に見えない事柄は、宇宙創造のときから、造られた物を通して明らかに悟ることができます」(ローマ1,20)。事実、人間は昔から神の神秘を信じて神にあこがれ、様々な方法で神を祀り、神に祈って来た。わたしたちはこうした宗教現象を「自然宗教」と呼んでいる。しかし、理性の力の限界ゆえに、人間の神理解は不完全で、いろいろな誤った観念や迷いから逃れることはできなかった。

神を知るもう一つの方法は、神の啓示を信じることである。事実、神はよしとされる時に人類の歴史に介入し、自らを人類に啓示した。聖書に言う。「神は、昔、預言者たちを通して、いろいろな時に、いろいろな方法で先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子を通してわたしたちに語られました」(ヘブライ1,1)。人類に対する神の自己啓示は、人となった神の子キリストによって完成された。この神からの啓示は「超自然宗教」と呼ばれ、自然宗教の欠けた所を補い、完成するものである。

こうして、神の啓示とそれを保持し伝える教会を知り、その教えを受け入れて生きることは、すべての人間の権利であり義務である言われるのである。諸宗教の信奉者も例外ではない。パウロ6世は強調した。「非キリスト諸宗教の人々にも、キリストの神秘の宝を知る権利があることを強く主張するのが教会の立場です」(使徒的勧告『福音宣教』53)。

しかし、このような教会の主張はキリスト教以外の諸宗教を卑下したり、否定したりすることではないのだろうか。そうではない。諸宗教は、神に向けて造られた人間本性から生じた尊いものであるばかりでなく、その中に「神の言葉の種子」を宿し、「福音(キリスト教)への準備」になるもとして、教会は諸宗教を尊敬している」(『福音宣教』53参照)。そして、諸宗教の中にある神認識は神の啓示を信じるための前提(praeambula fidei・信仰の前提)となる。神を知らない人には神の啓示もおとぎ話でしかない。また、秘められた神の言葉の種子はキリスト教において見事に開花し、結実する。キリストは、秘められた「神の言葉」の現れそのもの(ヨハネ1,14:マタイ28,20参照)だからである。

このような意味において、「信教」とは、啓示する神とその教会、つまりキリスト教を信じて生きることであり、この行為は知恵と自由を備えた人間ペルソナの人格的行為であって、何人(なんぴと)もこれを妨害したり強制したりできない不可侵の権利・義務である。つまり、信教は自由なのである。教会は教える。「何人も、自分の良心に反して行動するよう強制されることなく、また、私的あるいは公的に、単独あるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の良心に従って行動するのを妨げられることはありません」(カテキズム2106)。人間に自由を与えた神ご自身、人間を愛してその自由を尊重し、決して強制することなく、人間が自己の責任において神に応答するよう待っておられる。

教会はさらに言う。「信教の自由の権利は、誤謬を奉じてよいとする道徳的許可でも、誤謬を選ぶ権利でもありません」(カテキズム2108)。はじめに述べたように、信教の自由は真の宗教を信じる自由であり権利であって、信じない自由ではないのである。もちろん、人間は自由であるから、神に逆らい、宗教を拒否することもできるが、良心に反して信仰を拒むことは自由を乱用することにほかならない。



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