メディアの霊性とモラルを求めて

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メディアの霊性とモラルを求めて

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/06/01/ 00:00]

このところ、中東のアラブ諸国における民主化運動にソーシャル・メディアの果たす力が見直される一方、中国におけるメディア規制のニュースも人々の注目を集めている。わが国でも、東日本大震災時におけるソーシャル・メディアの活躍が報じられている。

ソーシャル・メディアについては、わたしはその実態をよく知らない。インターネットについてはホームページを開いている関係上、ある程度の経験はあるが、携帯電話については、それを持たないから、新聞雑誌の記事を通して知る以外の知識を持たない。ただ、ソーシャル・コミュニケーション全般についてはカトリック広報委員会委員長などの経験からいささかの持論もないわけではない。そこで、メディアの倫理性について意見を述べてみたい。

その前に、「第45回世界広報に日」(わが国では5月29日であった)の教皇メッセージの一節を紹介して話を始めよう。教皇は言われる。「つい最近まで想像もできなかったような視野が今、開かれています。そうした視野において、わたしたちは最新メディアがもたらす可能性に驚かされると同時に、デジタル時代における通信の意義について深く考えるよう強く求められます。そのことは、インターネットの計り知れない可能性と用途の複雑さに直面するときに、いっそう明らかです。人間の創造による他の産物と同じように、新たな通信技術も個人および全人類の包括的な福利に貢献しなければなりません。賢明に用いられるならば、その技術は意味、真理、一致への願いという人間一人ひとりの根底からの切望を満たす助けとなります」(ベネディクト16世の’11広報の日メッセージから)。

要するに、最新の驚異的な発達を遂げた様々なメディアの使用については、「意味と真理と一致」にかなうことによって人類の福祉に貢献しなければならないという勧告である。そしてこの勧告は、当然のことながら、情報の「送り手」と「受け手」の双方に向けられている。今日の顕著な徴候は、誰でもが送り手と受け手のどちらにもなれるということであろう。少数のプロの送り手によるマス・メディアの時代から、多くの市民が送り手となって情報を発信するソーシャル・メディアの時代になったのである。従って、送り手受け手の双方に「メディアの霊性とモラル」(意味とあり方)について、一層の自覚と責任を強く促さなければならないであろう。

まず、情報の送り手については、大手の業者も個人の場合も、情報発信は自由でなければならないが、しかしその情報は真実、正義、そして隣人愛に同時に叶うものであなければならない。たとえその情報が事実であったとして、他人の名誉を傷つけるものであってはならず、その善益を損なうものであってもならないのである。ましてや、どんな理由があれ、人を非難中傷することやスキャンダル記事、暴露記事は禁じられる。また、報道の自由を楯に乱発されるセックス情報の発信は厳に排斥されねばならない。ある国々で信教の自由や報道の自由など社会的な表現の自由の抑圧が見られることは残念である。世論の盛り上がりによってこれらの抑圧を退ける運動が盛り上がることを期待したい。

一方、受け手の倫理については、何よりも賢明なメディアの利用と注意深い判断力が要求される。周知の通り、すべてのメディアが真実を語り、正義と愛に叶っているわけではない。世の中は様々なアンケートに満ちているが、多数意見が必ずしも真実とは限らない。しばしば少数意見に見るべきものがある。また、有名人の意見だからといって、それが真理、正義、愛に叶っているとは言い難いことも知っておかなければならない。特に判断力がまだ弱い幼児や児童はもちろん、青少年といえどもその経験の未熟を考慮して、両親や教師の目配りや助言の重要性を自覚していなければならない。最近では新聞記事を学習に利用する傾向も見られるが、新聞記事は一度疑ってみるぐらいの賢明さが必要であろう。

ここで強調しておきたいことは、オピニオン・リーダーの重要性である。報道される様々な情報に対するその人の反応が多くの人々の反応を方向づける場合がある。その影響力のある人をオピニオン・リーダーという。幼児や児童に対する親、生徒に対する教師、各界各層における指導者などがそれである。友だち仲間においても、リーダーたちの意見には仲間を誘導する力がある。それらのリーダーたちの責任は重大である。

最後に、社会や国家のあり方について、今日多くの議論があり、世論調査もしばしば行われる。特に、東日本大震災に関連して、日本社会の今後の在り方についても多くの議論が戦わされている。その際、成長神話に基づいて際限なく富の蓄積を目指す資本主義か、あるいは、限られた世界の富を必要に応じてみんなで分かち合う清貧の思想か、換言すれば、「所有のイデオロギー」か「共通善の追求」かの区別と違いを識別し判断できる、あるいは議論に参加できるメディア人間(communicator)でありたいと思う。