東日本大震災と「いのち」の神秘
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/06/15/ 00:00]
物資文明の豊かさを享受してきた日本人は、突如襲ってきた大震災によって人間のはかなさをあらためて思い知らされた。しかし同時に、人間のいのちをいとおしむ心もまた強く意識されたのではないか。そこで、いのちとは何か、その神秘を考えてみよう。
そもそも、人間は肉体と霊魂からなる人格的統一体であり、「パン(ものとカネ)だけではなく、神の言葉(人間創造のご計画)によって生きるべき存在」(マタイ4,4参照))である以上、大震災から立ち上がる被災者をはじめ、日本自体の新生において、政治・経済だけでなく、真に「いのちの神秘」を生きる高貴な召命を持つ存在としての復興プラン、新生プランがなければならぬ。
ところで、人間は、自らの力で生きるのではなく、生かされている存在であるという自覚は日本人共有の感覚であると思う。しかし、その実体が何であるかについては必ずしも確かではない。このことについて第2バチカン公会議(1962-65)は言う。「実際、人間の秘義は人間となった神の言葉(キリスト)の秘義においてでなければ本当に明らかにならない。事実、最初の人間アダムは未来の人間すなわち主キリストの予型であった。最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(『現代世界憲章』24)。
周知のとおり、「最初の人間アダム」とは人祖のことであり、人類の最初の親であるとされる。そして「最後のアダム」とはキリストのことで、あがなわれた新しい人類の頭(かしら)とされる。最後のアダム・キリストによって、人間の本当の秘義が明らかにされたというのである。この「いのちの神秘」を『カトリック教会のカテキズム』(1992年)はその序論の冒頭で次のように説明している。
「神は、限りなく完全であり、神ご自身において幸せであったにもかかわらず、純粋に善意のご計画により、お望みのままに、人間をご自分の幸せないのちにあずからせるために創造されました。それゆえ、神は、いつでも、またどこでも、人間の近親となっておられます。神は人間に呼び掛け、人間が神を探し求め、神を知り、そして、力を尽くして神を愛するよう、人間をお助けになります。罪が離散させたすべての人間を、ご自分の家族である教会の一致の中に呼び集められます。このことを成し遂げるために、神は、定められた時が来たとき、その御子をあがない主、救い主としてお遣わしになりました。神は、御子のうちに、また御子を通して、聖霊の交わりの中で、人間を神の養子、従ってその幸せないのちの世継ぎとなるよう招いておられるのです」(第1項:筆者逐語訳)。
ここに示された教えの要点を三つほどあげておこう。
1-まず、人間は人間自身のために造られたということ。第2バチカン公会議の次の言葉は象徴的である。「人間は、神がそのもの自体のために望んだ地上における唯一の被造物である」(現代世界憲章24)。神ご自身は最高に完全な御方であり、幸せないのちを生きるために他者を必要とはされない。人間のために人間を造られたのである。そこに、人間に対する神のあふれる愛と善意がある。
2-人間の究極の目的は、神の養子として神の幸せないのちにあずかること。無から創造された人間は、神の養子となって神の家族となり、その幸せな団らんのいのちにあずかるよう呼ばれている。罪によって神の愛を裏切った人類は、人となった神の子キリストのあがないによって「神の養子」としての恵みを回復した。
3-神のうちにある「いのち」の本質は愛であること。「独り子を与えるほど人間を愛された神」(ヨハネ3,16参照)は、「神は、愛によって愛のために人間を造られた。愛はすべての人間の生まれながらの根本召命である」(ヨハネ・パウロⅡ世)。キリストは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)と言われたが、神の愛と人間相互の愛こそが人間の究極の召命であり、「いのちの神秘」なのでる。従って、人間生活の基本かつ土台となる結婚と家庭をはじめ、政治、経済、教育、文化その他、一切のものが純粋な愛に動機づけられ、愛による一致を目的とするものでなければならないのである。
大震災後、復興のための多くの議論があるが、あまりにも政治的かつ経済的な議論ばかりである。「復興ではなく新生を目指せ」というパラダイム転換の議論も一部にあるが、その本質は必ずしも明確ではない。だから、「神の愛によって愛のために」という「いのちの神秘」を愚直に生きる社会の構築こそ、新生日本建設のヴィジョンでなければならないとわたしは確信している。