福島第一原発事故の教訓

福島第一原発事故の教訓

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/08/15/ 00:00]

福島第一原発の事故により、今年の原爆記念日には特別の思いがある。核エネルギーの軍事利用ばかりでなく、その平和利用についても疑問が投げかけられたからである。その疑問とは何か、考えてみよう 。

「原子力の平和利用」の美名のもとに、「原子力発電は安くて安全でクリーンである」という「安全神話」に騙されていたことが、福島第一原発事故の後、さまざまな立場の専門家たちの議論や告発によって次第に明らかになってきた。特に『世界』誌7月号、8月号の記事は隠された真実を明らかにしてくれたように思う。これらの論議をもとにして、倫理的な観点から原発について何と言えばよいか。

第一点として、原発は未完成の科学技術であり、巨大地震、巨大津波、さらには核攻撃など想定を超える事故が起きた場合、放射能被害を完全に制御し、収束する手だてがない以上、原子力発電を支持する倫理的根拠は存在しないということである。

「原子力発電について、意見が分かれる主要な点は二つある。一つは、核汚染廃棄物を処理する技術が存在せず、しかもプルトニウムのように、自然界に存在しないきわめて有害な放射線物質を、何代にもわたって大量に放置せざるを得ない産業を認めてもよいかと、いう意見と、その処理技術の開発を将来に期待する、という意見の対立である」と、京都大学名誉教授・伊東光春氏は主張するが、まったく同感である。

ではなぜ、こんな危険で未熟な発電が推奨され、実施されたのか。原発論議を読んでいて驚いたのは、まずアメリカにおいて、原子力発電を推進したものは、原子力の軍事利用批判をかわし、軍事利用のための原子炉技術の維持開発のためであったとする議論である。

「原子力平和利用の発端は、周知のように、1953年末に米国大統領アイゼンハワーが国連演説で表明した”Atoms for Peace”である。しかし、この政策で米国政府が真に目指したものは、同年8月に水爆実験に成功したソ連を牽制すると同時に、西側同盟諸国に核燃料と核エネルギー技術を提供することで各国を米国政府と資本の支配下に深く取り込むことにあった」(広島平和研究所教授・田中利幸氏)。

こうしてアメリカは、核エネルギーの平和利用としての原子力発電の事業に膨大な国家支援を実施すると同時に、広島に原子力発電所を作らせて、原爆批判を和らげようと懸命に行動したといわれる。さらに、唯一の核被爆国である日本に対して、安くて安全な発電として原子力発電技術の売り込みを働きかけたといわれる。

一方、日本政府は、とくに田中角栄首相は1974年、電源三法を成立させ、それによって集められた資金は、そのほとんどが「アヘンのような交付金」として、電源立地地域にばらまかれて原子力発電所の増設を促し、経営破たんしかけた過疎地域市町村や電力会社、そして「御用学者」を巻き込んだ自民党の「利権政治のビジネス・モデル」として確立されていったという(伊東光春名誉教授論文)。その付けを、いま民主党政権が払わされているのである。しかし、原子力を完全に制御できる科学技術がない以上、誰が総理大臣になっても原発の安全を取り戻すことは不可能であろう。

以上のような識者の指摘が本当だとすれば、核エネルギーを完全にコントロール出来ない、はなはだ危険な原子力技術が、アメリカでは軍事目的に資する形で、わが国においては、経済至上主義(平たく言えば金もうけ主義)のために、原子力発電を推進したのであり、そこには、道徳観念(モラル)が全く無視されてきるといわなければならない。福島第一原発事故に見られるように、こうした不純な目的のために推進された原子力発電は、未曾有の環境破壊をもたらし、その収束の見通しは全く立たない状況である。いわば史上最悪の公害を引き起こした無謀な原子力乱開発を正すものは、確固とした道徳観以外には考えられない。そのためにも、天地創造の初め、神が人間に課した使命と責任を想起することは極めて重要である。

「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」(創世記1,28)。こうして人間は、人類繁栄のため、神に代わって地を治める任務を受けた。この使命は、あくまで神の創造の目的に従って適切に世界を開発し、人類の健全な発展に寄与することによって、「神の創造を完成する」(現代世界憲章57)ことであって、決して自然を乱開発してさまざまな公害をまき散らし、もって人類を破滅に陥れることではない。福島第一原発事故は、原子力の平和利用については、科学者も政治家も企業家も、そして国民全体が、正しい倫理観に立って慎重に対応しなければならないということである。