問われる日本人の教養

問われる日本人の教養

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/09/01/ 00:00]

「今、学者ですら教養を失いつつあります」と、文芸春秋8月号の対談記事で、ある対談者が慨嘆していた。特に日本の各界指導者たちの劣化を指摘しているのである。しかし、そこでいわれる教養の意味は必ずしも明確ではない。教養とは何か。

この対談記事は、-特別対談-「日本人よ、自らの剣で運命を切り拓け」という物騒なテーマで二人の有名人が語り合っている。その一人は『日本人の誇り』の著者であり、もう一人は『NOと言える日本』の著者であるといえば、対談の内容も大方推測がつく。さわりの部分を引用しよう。

一人は言う。「政治家でも官僚でも、いま80歳以上の人には立派な人が多いと思います。旧制高校の教育を受けたひとには教養がありました。今は大違いです。学者ですら教養を失いつつあります。教養がないと大局観をもてません。大震災やリーマン・ショックと関係なく、日本は十数年前から何もかもがうまくいかなくなっていますね。教育から政治、経済、社会、と全面的な困難にぶっかっています。こういう複雑に絡まりあった問題は一つ一つ直そうとしてもダメで、一挙にガラッと変えなければどうにもならない。大局観が必要です」

もう一人も言う。「それにしても、最近は日本特有の情念や感性がだんだん希薄になってきた気がしますね。日本人の基礎的な教養が損なわれたというか、日本人独特の感性もあまり必要とされないし、それを伝える手段も教科書もない。なんだか怖いですね。いまや画一的な日本人ばかりでいかにも虚しい気もする」

80歳以上とか、旧制高校といえば戦前を意味しよう。あのころの指導者は教養があり、日本人の誇りを持って毅然として事に当たったというのであろうか。しかし、わたしは思う。戦前といえば、大日本帝国の時代であり、皇国史観のもとに大東亜共栄圏を唱えてアジア諸国を侵略した軍国主義の時代であり、そこに帰れというのであれば、大した時代錯誤であろう。明治維新からの日本は、「和魂洋才」を掲げ、国家神道という魂のもとに西欧の科学技術を取り入れて富国強兵を図り、軍事大国を理想としていたが、1945年8月15日、連合国への無条件降伏によってその理想は破綻した。

終戦後、軍事大国への道を断たれた日本は、戦争放棄を掲げた新しい憲法のもと、日米安保条約をもって国防をアメリカにまかせ、もっぱら経済の復興と発展に邁進し、世界第二位の経済大国に躍進したが、これもバブルの崩壊によっておかしくなり、リーマンショックによる金融経済危機に継ぐ東日本大震災と福島原発事故の追い打ちをくらって、経済大国の夢も砕かれた。となれば、今後、日本人はどこへ向かうのであろうか。軍事大国と経済大国への理想がついえたとなれば、あとは「文化大国」の理想を掲げるしかないのではないかとわたしは思う。人間性を開発し、人間性を豊かに生きることを目指す文化大国なら、世界に対して軍事侵略もなく、経済侵略もない、同じ人間性を共有する連帯と相互補完を生きる真の国際国家となれるであろう。

教養とは文化(Culture)と同義である。知恵と自由を備えた人間は、人間らしく生きるために営々と努力して文化を築き、こうしてその時代と地域に即した文化伝統を構築してきた。文化とは、より人間らしくなること、すなわち「人間化」のことである。この文化を身につけることが教養である。そして、人間性を豊かに生きることが文化であり教養であるとすれば、真の教養とは、人間が何であり、どこから来てどこへ行くかを究めることでなくてはならない。そして、人間についての客観的な真理は、「人類共通の起源であり目的である天地創造の神」(諸宗教宣言no.1参照)の中に求めるしかない。「神なくしては、人間はどこへ向かうべきかを知ることもできないし、自分が何者なのかさえも理解できない」(回勅『真理に根ざした愛』78)からである。もしも日本人の心が神に開かれれば、誠実、勤勉、旺盛な知識欲、貧しさを恥としない清貧など、かつてザビエルも称賛した日本人の良さや徳性は、正しい信仰によって清められ高められて、一層その輝きを増すであろう。

ところで、人間性を開発し、人間性を豊かに生きる生き方は、18世紀以来、ヒューマニズム(人間化主義)とも呼ばれてきた。それは文化や教養の発展を目指すことである。教皇ベネディクト16世はヒューマニズムには二通りあることを強調して述べる。「神を排除するヒューマニズムは非人間的なヒューマニズムです。絶対的な存在へと開かれたヒューマニズムだけが、つかの間の流行にとらわれる危険にさらされることなく、社会生活および市民生活の形態(構造、制度、文化、主潮等)の促進と構築を導くことができるのです」(回勅『真理に根ざした愛』78)。神に開かれたこのヒューマニズムのことを、お金や力に偏らない「全人的ヒューマニズム」と呼ぶのは教皇パウロ6世以来の教会の伝統である(1967年の回勅『諸国民の進歩』Populorum Progressio 42参照)。

深刻な試練と混乱の中で試行錯誤している日本は、これからどこへ行くのか。日本人はどの道を選ぼうとしているのか。皇国史観の過去か、格差を誇る経済大国の夢か、それとも人間の超越的な尊厳を踏まえた全人的ヒューマニズムを謳歌する文化大国の未来か。いま、日本人の教養が問われている。



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