iPSから生殖細胞、是か非か
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/09/15/ 00:00]
さる7月22日の朝日新聞の『耕論』欄に、「iPSから生殖細胞」と題して、「あらゆる細胞や組織になりうるiPS細胞から、ヒトの生殖細胞(精子や卵子など)をつくる研究が始まっている」として、3人の識者の意見を掲載していた。
同新聞の解説によれば、iPS細胞(人工多能性幹細胞)は皮膚などの細胞をさまざまな細胞になれる状態に「初期化」したもの。生殖細胞づくりについては文部科学省が昨年5月に解禁、今年から慶応大と京都大で研究が始まった。理論的には一人の細胞からつくったiPS細胞で精子や卵子をつくることもできるが、国内では受精は認められていないという。
また、意見を述べた3人のうちの一人、慶応大の岡野栄之教授によれば、「世界的には受精までは認めている国もあります。ただ、つくった受精卵を女性の子宮に入れて着床させない、という点は現時点での世界的なコンセンサスです」という。しかし、「受精させないと生殖細胞の機能はわからない」など、不妊治療の観点から受精卵づくりへの要望もあるらしく、「受精卵からつくるES細胞の臨床研究など、実績のある領域で日本だけ厳しい規制をすると、開発が遅れます」と述べていることからすると、iPSからの精子や卵子を使った受精卵づくりの圧力は強く、規制緩和の恐れなしとしない。
さらに、彼は言う。「科学者に1を許せば、坂を転げ落ちるように100までやってしまう。だから1の段階で阻止すべきだという『下り坂理論』で規制すると、魔女狩り的になんでも駄目になります。その結果、治療法の開発につながる研究もできなくなるかもしれません。米国の生命倫理学者マイケル・ガザニガは『下り坂理論を排除したい』と書いていますが、私も同感です」と。
朝日新聞の記事から上記のような事情を知って大変驚くと同時に、キリスト教倫理から見て、このような科学技術の適用が果たして許されるのかどうか、改めて検討する必要を感じないではいられなかった。そこで、この小論で詳しく論じる暇はないから、ごく簡潔にいくつかの要点を、教皇庁教理省『生命のはじまりに関する教書』から、整理して読者の参考に供したいと思う。
1-まず根本原則として、「科学や技術それ自体は、人生の意味や人間にとっての進歩の意味を示すことはできない。科学技術は人間のためのものであり、それを開発し、発展させるのも人間であり、科学技術の目的とその限界の認識は、人間およびその倫理的価値観に照らしてこそ得られるのである。科学研究とその応用が倫理的に中立であると思い込んではならない。科学技術がそれ自体意味を持つためには、道徳律の根本的な基準を無条件に尊重することが必要である」(上記教書)。
2-人間の生殖のあり方については、「夫婦が神の創造的な愛に責任をもって協力することが求められる。神からの賜物である人間の生命は、結婚において夫婦の人格とその一体性に刻み込まれている法に従って、第三者が排斥される夫婦の間の特定の営みを通して生み出されるものである」(同上)。従って、いかなる理由によっても、夫婦以外の第三者による生殖過程への直接介入は許されない。精子や卵子をつくり、受精卵をつくり、これを子宮内に着床させるなど、科学技術が生殖の過程に介入し、これを支配することは、神の領域への不当な侵害である。技術的に可能なことなら何でもできるわけではない。科学者のモラルが問われる。
3-親が子供を持ちたいと願うことについては、「当然のことであり、それは夫婦の愛の営み自体に刻まれている父親となり母親となる使命を表現するものである。この願望は、不治と思われる不妊症に悩む夫婦にとってはさらに強いものとなろう。しかし、結婚によって子供を得る権利が夫婦に与えられるわけではなく、ただ、本性上生殖に向けられている自然の行為を営む権利のみが与えられているのである」(同上)。何が何でも子どもがほしいというのは単なる欲望であって、権利などでは決してないのである。
4-生殖過程への科学技術の介入に対する公権の規制については、「無害な各個人の生命に対する不可侵の権利と家庭および婚姻制度に伴う権利は、倫理上の根本的な価値であり、人間の本性と使命全体にかかわるものであると同時に、市民社会とその秩序の構成要素でもある。それゆえ、生物医科学の領域において開かれた新しい技術的可能性は、行政機関や立法機関からの介入を必要とする。それは、そのような技術を抑制なしに応用することが市民社会にとって予想できない害をもたらしかねないからである」(同上)。この点、「科学の発展」や「不妊治療」などの美名に隠れて暴走しかねない科学者や医療者のモラルを監視し、良俗を守るべき立法や行政の見識が問われている。