キリスト教の「福音」とは

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > キリスト教の「福音」とは

キリスト教の「福音」とは

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/10/01/ 00:00]

キリスト教の福音とは、「信じる人を救う神の力」である。その福音にあずかって救われるためには、神に立ち返って福音を信じなければならない。洗礼を受けることはその証である。そして、すべての人が救いに招かれている。

ここで福音(エウァンゲリオン)とは、日常ギリシャ語では“よい知らせ”、特に勝利の吉報を意味する。”ローマの平和“とか、神格化され救い主とあがめられたローマ皇帝の生涯のおもな出来事なども福音と呼ばれている。しかし、キリスト教用語としての“福音を宣べ伝える”という動詞は、旧約聖書から借用されたものと考えられており、この語はすでに旧約聖書に中において“救いを告知する”という特別の意味を含んでいる(聖書思想事典)。

教皇ベネディクト16世は「福音」という語は単なる「よい知らせ」以上のものであることを強調する。「福音史家がこの言葉を選び、それが彼らが書いた書の名となったのですが、そこで彼らが言いたかったことは、神と自称した皇帝が分を超えて主張したものが、ここでは実際に起きていることを示すことだったのです。それは単なる言葉ではなく、現実であり、権威をもった告知です。今日の言語理論の言葉で言うなら、福音は単なる情報伝達的(informative)な言語ではなく、行為遂行的(performative)な言語であり、単なる通知ではなく、行動であり、救済と変革の力をもって世界に働きかける力なのです。マルコは「神の福音」について語ります。世界を救うことができるのは皇帝ではなく、神であることがここに明らかに示されます」(『ナザレのイエス』)。

そこで聖パウロは福音について語る。「わたしは福音を恥としません。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だからです」(ローマ1,16)。

人間は救いを必要としている。科学技術や医療技術、それに社会福祉など文明の発達によって人間の悩みは相当の部分救われることになったが、しかし、究極の救い、永遠の救いは人間からではなく、人間をこよなく愛してこれを救う神の力に頼らざるを得ない。そして実際、神は人となった神の子イエス・キリストを通して人類救済の大業を成し遂げられた。これが福音であり、それはキリストご自身の出来事に他ならない。聖マルコが「神の子イエス・キリストの福音」(マルコ1,1)と呼んでいる通りである。

しかし、聖パウロが言うとおり、救いは福音を「信じる人」にのみ与えられる。イエスは使徒たちを派遣して言われた。「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう」(マルコ16,15-16)。これは、信じない人においては、福音といえどもその力を発揮することができないということを意味する。つまり、人間の同意なしには、神は人を救うことができないのである。

主の宣教命令に従い、使徒たちと使徒たちのもとに呼び集められた教会は、「救いの普遍的秘跡」(宣教教令1)としてすべての人に福音を宣べ伝えてきたし、今も宣べ伝えている。福音を宣べ伝えることは教会の「本質的な使命」(宣教教令2)であり、教会の権利であり義務である。そしてすべての人がこの福音を聞く権利・義務を有する。パウロ6世は言われた。「非キリスト諸宗教の人々にも、キリストの神秘の宝を知る権利があることを強く主張するのが、教会の立場です」(『福音宣教』53)。権利があれば義務もある。そして、福音を聞いてこれを信じる者は救われ、信じない者はその責任を問われると、キリストは言われるのである。その信仰の客観的なあかしが洗礼であることは言うまでもない。

もちろん人間は自由であり、神も人間の自由を尊重される。しかし、人間の自由には責任が伴う。福音を信じて救われるか、福音を拒んで滅びるか、その責任はあくまでその人間にある。

かつてわが国では250年にわたる長く厳しいキリシタン禁制と迫害の歴史があった。この悲しい歴史の責任は公権(為政者とその協働者)にある。キリシタン禁制と迫害は、万人に救いの福音を宣べ伝える教会の権利と義務を侵害するものであると同時に、福音を聞く権利と義務を有する日本国民の基本的人権を侵害するものでもあったのである。現在は、信教の自由を公認する憲法によって教会と日本国民の権利・義務は守られているから、「信教の自由」という権利と義務を正しく行使するか否か、人はその責任を問われている。

なお、人間の救いは神からの無償の恵みであり、同時に、救いの福音を信じるにあたっては、人間の傲慢とその精神の暗さ、悪魔とその勢力の妨害のことを思えば、祈りの重要性をいくら強調しても足りることはないであろう。