いまや所得格差是正の好機だが

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いまや所得格差是正の好機だが

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/10/15/ 00:00]

財政正常化の問題に加え、復興財源をどうするかについて与野党で論議が続いている。ねじれ国会の中でどのような結論が出るかまだわからないが、資本主義経済の中で生じた所得格差を是正するよい機会であることをここに強調したい。

そこでまず思い出すのは、旧約聖書時代の「安息の年」の慣行である。モーセの律法によれば、7年ごとに巡ってくる安息の年には畑が休閑となり、奴隷たちが解放された(出エジプト記23,10-11、レビ記25,1-28、申命記15,1-6参照)。これについて、ヨハネ・パウロ2世は書いている。「これらの律法の規定は、奴隷の解放だけでなく、実際には聖書の律法全体が一定の規則に沿って、すべての負債を帳消しにすることを規定していました」(使徒的書簡『紀元2000年の到来』12)。

教皇はさらに続ける。「この安息の年に当てはまることは、50年ごとに巡ってくるヨベルの年にも当てはまることでした。しかも、ヨベルの年には、安息の年の慣行はさらに拡大され、より荘厳に祝われました。…ヨベルの年に起きるもっとも重要な出来事の一つは、自由にされるべき全居住者の全面的な開放でした。この機会に、もし土地を手放していたり、奴隷の身分に落ちて土地を失っていた場合、すべてのイスラエル人は、先祖伝来の所有地を返還されたのです。土地は神のものでしたから、人が土地を完全に奪われてしまうことありませんでした」(同上)。

旧約聖書時代のこの慣行は、新約聖書の時代においても、物心両面において、より完成された形で引き継がれてきた。たとえば、「財産の普遍的使用目的と私的所有」について『カトリック教会のカテキズム』は次のように教えている。

「初めに、神は大地とその資源を人間の共同の管理にゆだねました。人間がその保全に努め、働くことを通してこれを治め、その実りを享受するためです。創造されたものは人類全体のために与えられたものです。しかしながら、この大地は、欠乏にさらされ、暴力に脅かされる生活の安全を保障するために、人々に配分されています。財産の私的所有は、人格の尊厳と自由を保証するために、また、基本的な生活条件に事欠く人々や扶養すべき人々を援助するために、正当化されます。財産は人々の間の連帯を表すのです」(2402項)。

「労働によって取得し、あるいは遺産相続や贈与によって受け取った財産私有の権利は、もともと大地が人類全体に与えられたという前提を無効にするものではありません。たとえ共通善の促進のために財産私有を尊重し、その権利と使用を保障することか求められるとしても、財産の普遍的使用目的はつねに優先されるべきものです」(2403項)。

「“人間は財産の使用に際して、自分が正当に所有している財産を自分のものとしてばかりでなく共同のものとしても考えなければなりません。すなわち、財産は自分のためばかりでなく、他人のためにも役立つようにという意味においてです”(現代世界憲章69)。一定の財産を所有するということはその所有者が神の摂理の管理者にされるということであり、それは、その財産を増殖し、その利益を、隣人を始めとして、他の人々と分かち合うことを意味します」(2404項)。

したがって、人間各自の自由と才覚によって得られる財産は特定の人々によって独占されるべきものではなく、必要に応じて他の人々と分かち合うべきものであるということである。そして、財産の分かち合いを通して所得格差を是正し、万人の自由と生活を保障する責任は政治にあることをカテキズムは次のように指摘している。

「政治的権威は、共通善を守るため、所有権の正しい行使を規制する権利と義務をもっています」(2406項)。

以上のような理由から、人間各自の自由な活動や、天災・人災によって広がった所得格差は、共通善を損なうものとして、公権によって折々に是正されなければならないというわけである。したがって、未曽有の国家財政危機の中で経済の建て直しが迫られている今こそ、貧困層の生活を脅かすような消費税アップではなく、富裕層の所得税率を引き上げるなどの公平な税制抜本改革によって財政危機を克服し、合わせて所得格差をいくらかでも是正する好機なのだが、今の国会議員さんたちにこんな大改革を断行する見識や勇気の持ち合わせがあるだろうか。それとも、個人所得の社会性に関するカトリック社会教説は、利潤の最大化を目的とする資本主義にどっぷりつかった日本社会には通じないのだろうか。