“強欲資本主義の象徴”について
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/11/01/ 00:00]
“その街(ニュウーヨーク・ウォール街)を「強欲資本主義の象徴」と非難する若者らのデモが広がっている。「ウォール街を占拠せよ」が合言葉。貧富の格差への怒りはネットで増殖し、全米に飛び火している”
これは、さる10月6日付朝日新聞のコラム「天声人語」からの引用である。前回のこの時評欄で“いまや所得格差是正の好機だが”と題してわが日本の貧富の格差是正について論じたが、ことの次第はアメリカのほうがよっぽど深刻なようだ。「天声人語」はつづけて言う。
“3年前のリーマン・ショックは経済を揺るがし、米では金融機関に公的資金が注入された。なのに懲りもせず富を独占し、一方で貧困層は増え続ける。失業率は9%を超え、若い層はより厳しい。怒りはもっともだろう。背景を思えば政府も黙殺できまい。オバマ大統領は就任演説で「富裕層だけを利していても国は繁栄できない」と高らかに語っていた。オバマ氏には若い支持者が多かった。抗議行動は、民主党大統領への期待の残り火であるとともに、裏切られた思いの異議申し立てであろう”
全米に広がる若者たちの抗議デモについては、「天声人語」の指摘は要を得ており、周知のことでもあるから、これ以上の説明は不要だが、ヨーロッパを始め全世界に見られる“強欲資本主義”の実態を考える前提として、『カトリック教会のカテキズム』に示されたキリストとその教会の教えを、「主の祈り」の一節、すなわち「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」の解説からその一部を紹介したい。
「“わたしたちの糧” わたしたちに命をお与えになる御父は、生きるために必要な糧や、時機に応じた物的・霊的善をすべてお与えにならないはずはありません。イエスは山上の説教で、御父の摂理に協力する子どもとしてのこの信頼について力説しておられます(マタイ6,25-34参照)。イエスは決して受動的になるようにと勧めておられるのではなく、尽きない様々な不安や心配からわたしたちを解放したいと望んでおられるのです。これが、神の子らにふさわしい一切放棄の姿です。
イエスは、神の国とその義を求める人々には、加えてすべてのものが与えられると約束しておられます。すべては神のものなので、もしも神をないがしろにするようなことさえなければ、神と共に生きている者には、何も欠けることはないのです」(以上2830項)。
「ところが、食べ物がなくて飢えている人たちの存在が、この願いのもう一つの深い意味を明らかにしてくれます。世界の飢餓という悲しい現実は、真心から祈るキリスト者に、個人的な行動においても、人類家族との連帯という観点においても、自分たちの兄弟に対する実際的な責任ある行動をとるようにと促します。主の祈りのこの願いは、貧しいラザロ(ルカ16,19-31参照)や最後の審判(マタイ25,31-46参照)のたとえとは切り離すことができません」(2831項)。
「練り粉の中のパン種のように、神の国の新しさは、この世界をキリストの霊によって刷新する力を持っているはずです。このことを、個人的・社会的・経済的・国際的関係の中で正義を確立することによって表す必要があります。そのためには、正しさを守ろうとする人々なしには公正な社会構造はあり得ないことを念頭に置かなければなりません」(2832項)。
「“わたしたちの糧”とは、“多くの人のための一つの糧”という意味です。真福八端(山上の説教の中の)が言う貧しさとは、分かち合いの徳のことです。それは、ある人々の豊かさが他の人々の窮乏に役立つために、強制によってではなく愛によって、物的・霊的善を共有し分かち合うようにという呼びかけなのです(2コリント8,1-15参照)」(2833項)。
なお、この際、経済活動のモラルにも言及することが大切であろう。その点に関して『カトリック教会のカテキズム』は言う。「固有の法則によって営まれる経済活動は、人間に対する神の計画に対応するため、社会正義に基づく倫理秩序の範囲内で行わなければなりません」(2426項)。つまり、経済活動によって得られる世界の富は、人類全体のために与えられるという神の計画に従って、全人類のために公平に配分されるべきであって、決して一部の人々によって独占されるべきではない、ということである。この倫理原則に従って就職の機会や公平な労働配分を保障するため、経済活動を規制することは公権の権利であり義務であるということは前回の時評で指摘したところである。アメリカの若者たちの今回の抗議デモが、単なる暴力ではなく、倫理原則に適った理性的行動として本来の目的を達するためにも、企業のモラルと公権の責任に関する観点が尊重されなければならないであろう。