“食といのち”の対談記事を読んで

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“食といのち”の対談記事を読んで

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/11/15/ 00:00]

“食といのち――ヒトが人となるために”というタイトルの示唆に富む連続対談が文芸春秋11月号に掲載された。その中で、宗教は「なぜ」(WHY)を問い、科学は「いかに、どのように」(HOW)を問うという、分子生物学者・福岡伸一氏の言葉が注目される。

対談に臨んだ料理研究家・辰巳芳子さんとのやり取りから件の部分をまず紹介しよう。

 辰巳 ところで、福岡先生は科学者として、宗教に対してどのようなスタンスに立っておられるのでしょうか。

 福岡 自然観や生命観は科学だけの問題ではなく、宗教がその答えを出してくれることもあると思っています。私は大きくは次のように整理しているんですね。

「なぜ」という疑問には、科学は答えられない。たとえば、「なぜ私たちが存在しているのか?」「なぜ生き物はこの地球上に現れたのか?」というような疑問です。

それに対して、科学はWHY (なぜ)じゃなくてHOW (いかに、どのように)に答えるものだと考えています。「生きているというのはこういうことだから食が大事です」とか、「自然というものはこういう動的な平衡のなかにあるので、だから食が大事なんです」というふうにHOWのことは科学が説明できる。そして私のやるべきことはそこにあると思うんです。

 辰巳 私もそう思う。

 福岡 「なぜ私たちが存在するんですか?」「それは、この宇宙を神がつくったからです」

これでは、そこで終ってしまう。本当にみんなが納得するWHYを語るためには、まずHOW の部分がその時代時代の最も精密な、解像度の高い言葉で語らなければならない。私はこのように整理して、自然観、生命観を科学者として、できるだけ解像度の高い言葉で説明して行く努力をしたいと思っています。

以上のやり取りを読んで、科学と宗教の役割の違いを肯定的に認め、科学と宗教が補完し合って初めて人間の存在も「食といのち」の真相も理解できるという福岡さんの言葉は、科学者の正直な告白である故に説得力があると思う。

要するに、人のいのちの原因と目的、すなわち人間の存在理由(RAISON D’ETRE)を説明するのは科学ではなく宗教である。キリスト教の立場から言えば、神は初めに天地万物をつくり、最後に人間をつくってこれに世界を与え、言われた。「世界を治めよ」(創世記1,28)、「額に汗して糧を得よ」(創世記3,19)。そのために、神は人間に知恵と自由を与えて神の似姿とし、神の協力者として自然を開拓し、互いに協力して糧を得なければならない。

こうして人間は、いただいた知恵と自由を生かして自然に働きかけ、さまざまな困難と戦いながら協力して日ごとの糧を得てきた。福岡氏は「食はカロリーだけではない」と言われるが、まさに食は単に肉体の栄養だけでなく、精神的かつ社会的存在である人間のいのち糧であって、そこには神の愛と人間の愛が込められている。従って、食は神からの恵みと人間からの恵みを分かち合う優れて共同体の営みであると同時に、共同体を育てる営みであって、初めは家族共同体の中で、次第にその輪を広げて、今やグローバルな規模で食を分かち合う時代になった。今年10月には世界の人口が70億人に達すると報じられ、食の不足を心配する声も聞かれるが、もし人間がその知恵(哲学・神学・科学・技術=政治を含めた)を生かしてまじめに働けば、人口増加に見合う食料を調達することができるはずである。しかしそのためには、世界は平和でなければならず、全人類が互いに協力して働き、必要なものを公平に分かち合う正義と愛の世界秩序を構築しなければならない。

なお、地上における人のいのちを支える食についての理解が、人の「永遠のいのち」の食についても適用されることは、対談の四番目、すなわち最後に登場する倫理学者でありカトリック司祭である竹内修一上智大準教授の話が示唆している。神は人間が永遠に生きることを望まれ、その超自然のいのちを、キリストを通して人類に与えると同時に、キリスト自らを永遠のいのちの糧として、パンと葡萄酒のしるしのもとに与えてくださったと聖書にある(マタイ26,26-28ほか)。最後の晩餐に始まるこのキリストの愛の神秘が、今も教会で行われるミサ(聖体の秘跡の祭儀)において継続されている。

実に不思議なことだが、究極において食が意味するものは、この世のいのちにおいても永遠のいのちにおいても、神の愛と人々の愛を食して一つになることであって、その目的は父なる神とその子らの「永遠の愛の宴(うたげ)」(黙示録19,9参照)にあずかることにある。キリストは神の国を祝宴にたとえ、すべての人がこの祝宴に招かれていると宣言された(マタイ22,1-14参照)。“食といのち”の神秘である。