悔い改めて「愛」を待つ季節

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 悔い改めて「愛」を待つ季節

悔い改めて「愛」を待つ季節

カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/12/01/ 00:00]

カトリック教会ではクリスマスまでの4週間を“待降節”としている。それは神の子キリストの来臨を準備して待つ季節で、それは、「悔い改めて神の愛を待つ季節」である。キリストは「人間となった神の愛」であり、受け入れるには回心が必要だからである。

この主題を考え始めてすぐ、わたしはかの有名な「フランシスコの平和の祈り」を思い出した。この祈りの訳はいろいろあるが、ここには、そのフランス語訳から私なりに日本語に訳してみた。

  「主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。

  憎しみのあるところに愛を、罪のあるところにゆるしを、不和のあるところに一致を、誤謬のあるところに真理を、不信のあるところに信じる心を、失望のあるところに希望を、暗闇のあるところにあなたの光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすことができますように。

  おお主よ、慰めるよりも慰められることを求めず、理解するよりも理解されることを求めず、愛するよりも愛されることを求めませんように。なぜなら、与えても受け、忘れられても見出され、死んでも永遠のいのちに復活するからです。」

少し説明すると、まず、この祈りがフランシスコの祈りとされるのはもちろん間違いで、「アシジの聖フランシスコがそうであったように、わたしを平和の道具にしてください」という意味であろう。そして、この祈りは「神に向かって」祈るのであり、「神の平和の道具」にしてくださいとの祈りである。「道具」という以上、わたしはもともと平和の所有者ではなく、神の平和を持ち運ぶ召使にすぎないことを表す謙遜な祈りである。そのために、わが身を捨てて人を愛する決意を込めた祈りでもある。

この祈りの真意をわかるためには、キリスト教信仰を前提にする必要がある。つまり、この世は罪の世であり、憎しみや不和、誤謬や誤解、さらには暗闇や失望や悲しみに満ちており、これを癒す愛やゆるし、一致や真理、信じる心や希望、そして光は、すべて神のうちにしかないという、いわば信仰告白が込められている。

ではいったい誰が神の平和をこの世にもたらすことができるのか。その答えが「イエス・キリスト」であることを、この祈りの作者は知っている。つまり、父なる神の子であり、その生き写しであるキリストこそ、神の平和をもたらす愛をこの世に持ち込む方だという信仰である。「神は愛です」(1ヨハネ4,8)、「神は人類を愛して御子をつかわされた。ここに神の愛があります」(1ヨハネ4,10)と宣言するキリストの愛弟子ヨハネは、書いている。「わたしたちが愛を悟ったのは、イエスがわたしたちのために命を捨ててくださったからです。わたしたちも兄弟のために命を捨てなければなりません」(同3,16)。

わたしたちは、ベトレヘムの馬小屋で飼い葉桶に寝かされた幼子の中に、神の豊かさを捨てて極貧に身をやつした神の愛の神秘を見ている。イスラエルの町々や村々をめぐり福音を説くイエスの言葉や行いやしるし(奇跡)は、そのすべてが神の愛の発露であることを信じて疑わない。そしてその愛は、盗賊とともに十字架にかけられ、命をささげる時、その極に達する。わたしたちは十字架像を仰ぐとき、そこに人間であるが故に仲間として人類の罪を背負い、神の子であるが故にふさわしく人類の罪を購う神の愛の勝利と輝きを見ているのである。

だから、平和の祈りの中に数えられているすべての徳性は、キリストの代名詞と考えてよい。聖書が証言する通り、キリストは平和であり、愛であり、ゆるしであり、一致であり、真理であり、信頼であり、希望であり、光であり、喜びである。その上、仕えられるより仕えることを選び、人類の救いのために命を捨てて最高の愛を全うされた。栄光の復活はそのことの決定的な証である。したがって、キリストの道具として平和の使者になるためには、回心して神に立ち帰り、純粋な信仰と切なる願望をもって神の子の降誕を迎えなければならないのである。

キリストは宣教活動の初めに神の愛の支配(神の国)の到来を告げて宣言された。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15)。ここにいう福音とはキリストご自身のことである。そして、世界は今もキリストを必要としている。