2011年の“時のしるし”
カテゴリー カトリック時評 公開 [2011/12/15/ 00:00]
間もなく年末を迎える2011年を振り返って感じるのは、歴史上、特筆すべき出来事がいくつも起こった年であるということではないだろうか。それらの出来事が示す「時のしるし」を読み取ることが大切である。以下、四点に絞って考えてみよう。
1-東北大震災と神の摂理
二万人近くの犠牲者を出した東北大震災は、想定外の自然災害として片づけられることが多かったが、しかし、それだけでは済まされない。なぜなら、大津波に関する歴史上の記録が十分に生かされず、自然災害を過小評価して、大災害に対する物心両面の備えを十分に行わなかったという、人災の側面を感じるからである。それゆえ、東日本大震災の教訓を識別して今後に備えなければならない。
何よりも、天地万物を創造してこれを主宰される神の摂理への畏敬と信頼を取り戻し、そして、人間互いに連帯し協力しながら、自然と調和した共生の知恵を磨くよい機会としなければならない。そうすれば、試練の時を恵みの時にすることができよう。
2―福島原発事故と科学技術の倫理
東日本大震災の結果生じた福島第一原子力発電所の事故は、広い地域わたって放射能汚染を引き起こし、10万人近くの人々の生活が奪われた。この放射能汚染は今も続いており、放射能汚染物質の処理はもちろんのこと、廃炉にされる福島原発の処理には何十年というとてつもない時間と労働力と費用がかかるという。もしも科学技術に過信して原子エネルギーの制御に失敗すれば、広島・長崎の原爆を上回る災害を招き、人類存亡の危機に立たされるかもわからない。したがって、今回の事故を徹底的に究明して今後に備えなければならない。すでに多くの議論や提案もなされてはいるが、ことの真相は必ずしも明らかにされたとは言えない。
それにしても、福島原発事故は、科学技術への過信からの“安全神話”と、経済至上主義が生んだ“成長神話”に踊らされて、危険な原発事業に手を染めた政官業学の癒着構造への真摯な反省と国民への謝罪を迫る“過失”であると同時に、人間の安全と進歩に奉仕すべき“科学技術”のモラルが厳しく問われた“事件”であったことは確かである。にもかかわらず、こうした公式の反省や謝罪がないばかりか、安全神話を再構築し、成長神話を今なお信じて、原発事業の継続と輸出に執心する関係者の存在をどう理解したらよいか。事故がなくても、原発は必ず汚染物質を排出し、放射能汚染を蓄積するというのに。
3-資本主義の破綻と新しい経済秩序の模索
「日本のデフレ、リーマン・ショック以降の米国の混迷、ギリシャほか欧州の財政危機など、先進国全体が見舞われている経済的混乱」。これは、さる11月3日付の新聞記事の一節である。わたしは経済には全くの素人であるが、新聞や雑誌等における専門家たちの意見や評論を読むと、「近代資本主義の黄昏」、「近代資本主義の終焉」、「資本主義は崩壊過程にある」などの言葉が聞かれ、「各国政府や中央銀行はじめ、経済学さえも処方箋を示せない」と言った悲観論が聞かれる。カトリック教会の社会教説は早くから「抑制なき」資本主義の矛盾を指摘してきたが、いまやそれが現実の危機となって表面化したというわけである。
際限ない事業の拡大と利潤の追求に明け暮れた強欲な資本主義、特に弱肉強食の市場原理主義のもとに拡散した「奪い合い」の経済構造から、世界の富を全人類が分かち合う正義と公正の経済秩序への大転換が求められていることは明らかである。そのために、人間人格の尊厳と自由を守るための私有財産権を尊重しつつも、私有財産権の前提となり規制となる「世界の富は全人類のためのもの」という原理原則を想起すると同時に、教会が分かち合いの徳であるという清貧の思想の盛り上がりと、民主主義政体では至難の業と言われる公権による金融・経済活動のコントロールが、一日も早く軌道に乗ることを切望してやまない。「金銭欲は諸悪の根源である」(1テモテ6,10)。
4-アラブの春と信教の自由
チュニジアに始まり、エジプトやリビアその他、イスラム圏諸国に広がった「アラブの春」は慶賀すべき出来事であるとは思う。しかし、リビアにおける新しい国づくりはイスラムによるという新聞報道に一抹の不安を感じる。過激なイスラム原理主義の広がりも気になる。これまでにもパキスタンやアフガン、あるいはイラクなどにおけるキリスト教の教会や信者へ迫害のニュースが思い出される。エジプトでも、迫害されたコプト派のキリスト教徒の抗議デモがあったことは記憶に新しい。イスラム教国教化は国民の信教の自由を損なう危険が心配されるのである。
世界が一つにならざるを得ず、さまざまな文化や宗教が共存する新しい時代を迎えた今、正しい政教分離の原則に立ち、信教の自由を尊重するアラブ諸国の民主化が実現する時こそ、真にアラブの「春」と言えるのではないだろうか。信教の自由は侵すべからざる基本的人権である。