信教の自由に関する宣言
カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/03/15/ 00:00]
第2バチカン公会議(1962-65)は、『信教の自由に関する宣言』(Declaratio de libertate religiosa)を公布した。副題には、「宗教問題における社会的、市民的自由に対する個人および団体の権利について」とある。
なぜ今信教の自由に関する宣言なのか。教会は当初からキリスト教信仰を受け入れる際の自由を一貫して尊重してきた。同時に、キリスト教信仰にとどまることの重要性も強調してきた。そのため、宗教裁判など離教者への厳しい態度などの行き過ぎも一時あった。また、キリスト教以外の宗教を信じることについては、単に寛容な態度にとどまった。
一方、近代市民社会においては人権思想が高まりを見せ、自由を求める声が大きくなってきた。宣言は述べる。「今日は、人間が人格の尊厳をますます意識するようになり、また行動するにあたって、強制されることなく、義務感に動かされて、自分の判断と責任ある自由をもち、これを用いることを要求する者の数が増えてきた」(『信教の自由に関する宣言』―以下宣言―1)。事実、国連は1948年の「世界人権宣言」の第18条で「思想、良心、宗教の自由」に対する権利を、教会に先駆けてすでに宣言している。
こうした事情に鑑み、第2バチカン公会議は激しい論戦を重ねたのち、1965年12月7日、公会議閉会の前日に、教会史上初めての「信教の自由」宣言を公布した。
ここにいう「信教の自由」とは、他者からの一切の強制も妨害もなしに宗教を信じることのできる権利のことである。信教の自由は「人格の尊厳」に由来する権利であり、すべての人間に本性上備わっている不可侵の基本的人権なのである。この信教自由の権利は、人間の社会性に鑑み、すべての個人ばかりでなく団体にも認められるもので、その信仰を公に表現し行動する社会的な権利である。ただし、信教の自由にも「社会の正しい秩序を守るため」の制限があると宣言は言う。人には自由があるといっても、他者の自由を侵すことは許されないからである。
公会議はこの信教自由の権利が世界中の国々で認められ、法的に保障されることを要求している。当時、共産圏の司教たちが数多く公会議に参加できなかったことが示すように、信教の自由のない国も決して少なくなかったが、半世紀を経た今日では、ほとんどの国が信教の自由を憲法で認めるようになっている。
なお、信教自由の権利はキリスト教信仰においてばかりでなく、すべての宗教はもちろん、神を信じない人々にも認められる普遍的な権利であるが、その一方で、この権利には真理を探し求め、そして真理を信じてこれに従う「義務」があることを公会議は強調している。なぜなら、人間を自由な人格として創造された神は、人間が神を求め、神を信じ愛して人格を完成するように望まれたからである。人間の本性には神を求める法が刻印されており、また、自然を通して神を認めてこれに従うことができるように、理性と自由意志が備わっている。
加えて、神はご自分を求める人間の望みに応えるかのように、歴史の決められた時にご自分を啓示し、最後には御独り子を地上に遣わして啓示を全うされた。したがって、御子キリストによって創建されてこの世に派遣された教会は、すべての人に神の啓示、すなわちキリストの福音をあらゆる時と方法を通して宣べ伝えている。公会議はこの宣言によって教会の使命を強調し、その子らに対して福音宣教のわざに励むよう勧告した。それはひとえに、すべての人が真の宗教、真の神を信じて人生を全うし、完全な自由に到達できるためである。聖書に、「真理はあなたを自由にする」(ヨハネ8,32)とある。
以上のように、二千年にわたる教会の歴史を総括し、聖書と聖伝の真の伝統と発展を踏まえて、教会自身の本性とその現代的使命を問い直した第2バチカン公会議が、それまでのどちらかと言えば排他的護教主義から、包括的対話路線への転換を成し遂げ、すべての人の人格の尊厳とその基本的人権に基づいて「信教の自由に関する宣言」を公布するに至ったことは、聖霊の導きとはいえ、当然の成り行きであった。
最後に、宣言は、福音宣教に当たって守るべき態度について次のように勧告している。「弟子たる者は、師から受けた真理をいっそうよく知り、福音の精神に反する手段を排して、忠実にこれを伝え、雄々しく擁護すべき重大な義務を師たるキリストに対して持っている。しかし、同時にキリストの愛は、信仰にいついて誤謬あるいは無知の状態にある人たちに対して、優しく、賢明に、忍耐をもって応対するよう要求する」(宣言14)。