公会議は経済について語る

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 公会議は経済について語る

公会議は経済について語る

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/04/25/ 00:00]

人類に語りかけ、人類に奉仕する教会は、第2バチカン公会議において「経済」について語った。経済活動は教会の使命ではないが、経済の意味と目的、すなわち経済の霊性と倫理性について語るのは教会の使命だからである。

まず経済とは何かを確かめておこう。広辞苑によれば、経済とは、「人間の共同生活の基礎となる物質的財貨の生産、分配、消費の行為、過程、並びにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体」である。

公会議は、「経済・社会生活」と題する現代世界憲章第2部第3章の冒頭で、「経済・社会生活においても、人間の尊厳とその全き召命、全社会の善が尊敬され促進されなければならない。人間は全経済社会生活の作者、中心、目的だからである」(現代世界憲章63)と述べた後、現代の経済の特徴は、増大する人間の自然支配、人間・国家間の相互依存の強化、頻繁な貢献の介入の三つをあげ、現代の経済発展は「人類家族の増大した必要に奉仕する適切な道具となった」(同上)と明言する。

さらに、現代の経済は不安の原因も抱えているとして、経済万能主義の支配、社会的不平等の拡大、人間にふさわしくない労働条件の三点を挙げている。その結果、生じた経済面における差別や格差を改めるために「正しい理性から要求される正義と平等の原則」を挙げ、「公会議は経済発展による要請を考慮しながら、上述の原則を現代の事情に照らして強化し、若干の方向づけを行う」(同上)と述べている。

公会議が言う若干の方向付けとは、次の三つに集約できよう。

1-人間に奉仕する経済発展

人口の増加に備え、人類の増大する期待にこたえるための経済発展を肯定しながら、公会議は述べる、「このような生産の基本的目的は、単なる生産物の増加ではなく、利益でも権力でもなく、人間に対する奉仕である。すなわち、物質的必要と知的・道徳的・霊的・宗教的生活の要請を考慮したうえでお人間全体に対する奉仕であり、人種や地域の差別なしに、すべての人間、すべての団体に対する奉仕である。したがって独自の方法と法則に従う経済活動は、倫理秩序の限界内において行われなければならない」(同64)。

それゆえ、経済発展は人間の統制下におかれなければならず、またすべての国民が自分の所属する共同体の真の発展のために寄与する権利と義務があることを強調する。同時に、「正義と平等の要請に応じるため、個人並びに社会的差別待遇と結ばれて増大していく現在の甚だしい経済的不均衡はできる限り除去するよう懸命に努力しなければならない」(同66)と述べる。

2-経済活動は神の創造の完成への協力

「物の生産と交換ならびに経済的サービス業に従事する労働は」(同67)単なる手段ではないと、公会議は次のように述べる。「この労働は自力によるものも、雇用によるものも、直接に人間から出るものである。すなわち、人間は自然物に自分の刻印をしるし、それを自分の意思に従わせる。人間は普通、労働によって自分と家族との生活を維持し、兄弟たちと結ばれ、これに仕える。また労働によって、真実の愛を実践し神の創造の完成に協力する」(同67)。

3-財貨の共有と私有の権利・義務

公会議は、地上の財貨は万人のためであると、次のように述べる。「神は、地上とそこにあるあらゆる物を、すべての人と民族の使用に決定した。したがって被造財は、愛を伴う正義に基づいて,公正にすべての人に豊富に行きわたらなければならない」(同上)。世界の財貨は人類共有のものであるとの大原則である。

そのうえで、財貨の私有権について述べる。「私有財産または物件に対する種々の支配権は、個人と家族の自律にまったく必要な領域を各自に提供するものであり、人間の自由の延長とも考えるベきである。それは義務と責任を果たすための刺激剤であるから、市民的自由の一条件でもある」(同71)。さらに言う。「私有財産自体は、本性上社会的性格をもっている。この社会的性格は財の共通目的の法則に基づくものである」(同上)。したがって、私有財産といえども、必要な場合には他者と分かち合うべきものである。

公会議から50年、現代世界憲章の以上の教えは、新自由主義の蔓延によっていっそう経済格差が広がっている今日、極めて重大に受け止めなければならないと思う。