教会は文化について語る
カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/05/10/ 00:00]
“人間は文化、すなわち自然の物と価値を耕作することによってのみ、真の完成した人間性に近づいて行く”(現代世界憲章53)。現代世界に語りかける教会は「文化」の問題を避けて通ることはできない。文化は人間の生き方そのものだからである。
第2バチカン公会議(1962-65)は現代世界憲章の第2部第2章において「文化の発展」をテーマに語っている。この小論ですべてを取り上げることはできないので、そのあらましを、文化とは何か、文化とキリスト教との関係は何かの二点に絞って紹介しよう。
1-文化とは
文化とは、人間がその理性と自由意志という能力を使い、自然に働きかけて造り出した世界と価値の総体である。文化と訳されているラテン語culturaは、耕すという意味のcolereから来ており、人間がその知恵と自由を使って自然を耕すことによって造り出されたものが文化なのである。だから、文化とは、人間が自然開発、人間開発、社会開発によって造り出したものと言ってよい。
このような文化は、人間をご自分の似姿に造り、「地を治めよ」(創世記1,28)と言って、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(同2,15)ことに由来するが故に、天地創造の神のご計画にかなう貴いものであり、人間とその社会の人間らしい成長と完成をもたらすものである。
文化は本質的にはすべての国や民族において同等であるが、そのあらわれ方には異なった特徴がある。その土地の風土や人々の個性が表れるのである。その異なる文化が出会い、互いに影響し合ってさらに発展していく。今や、科学技術の発達によって世界が一つになった今、固有の文化を尊重しつつ世界共通の文化を育てていく時代になっている。
さらに、文化は各世代を通して継承し発展していくものであって、その手段はまず家庭教育と学校教育であり、今日では各種メディア、文学、芸術、スポーツ、旅行など実に多様な仕方で文化の伝達や交流が行われる。
今日の世界の文化の発展はすばらしいのい一語に尽きる。しかし、それでもなお文化の恩恵に恵まれず、さまざまな所得格差、経済格差の中で呻吟している人々も少なくない。公会議のころもそうであったが、その後も、大きく改善されたとはいえ、今日も変わってはいない。公会議はそうした格差や遅れを解消し、すべての人が文化の恩恵に浴し、その創造に参加できる世界をつくるよう要望している。
2-文化とキリスト教との関係
キリスト教は文化の中で、文化を通してこの世に入り、諸文化の中で、諸文化を通してその使命を果たしていく。そのキリスト教は、人間の自然の力によるものではなく、神ご自身の、いわば超自然の業であって、啓示とか信仰とか世の救いとか呼ばれるが、その目的は人間が作る文化を浄化し高揚し完成することである。公会議は言う。「キリストのよい知らせは、罪に倒れた人間の生活と文化を絶えず刷新し、罪の絶え間ない誘惑から生ずる誤りと悪を攻め退ける。また民族の道徳を絶えず清め高める。精神的長所と各民族または各時代の美点を、天上の富をもって、あたかも内側から豊かにし、強め、完成させ、キリストのもとに集める(エフェゾ1,10参照)」(現代世界憲章58)。
こうして、文化とキリスト教は相互補完的関係にあり、互いに学び合い、協力し合って人間と世界の完成に尽くすのである。したがって、公会議は文化の発展を強く支持すると同時に、あらゆる仕方で文化の発展に協力すると述べた。同時に、公会議はキリスト教の使命の重大さを繰り返し強調している。文化の今日的発展は驚異的ではあっても、神の救いの業、すなわち恩寵によらなければ、文化はその究極の目的を達し得ないからである。
なお、キリスト教は諸文化を超えるものであり、したがってどの文化にも適合する。公会議は言う。「教会は、種々の文化形態と交わることができ、それによって教会自身も種々の文化とともに豊かになる」(現代世界憲章58)。
公会議後、誰がつくったか知らないが、インカルチュレーション(inculturation)とう語が普及した。「(キリスト教信仰の)文化内開花」と訳されるが、わが国の教会は当初ヨーロッパ人宣教師の宣教活動によって建てられたが、しかし、それは日本に移植されたヨーロッパの教会ではなく、日本文化の中で生まれ花開いた日本の教会である。しかし、それは同時に、本質的には世界各地の教会と同じ普遍的教会であり、その交わりと一致の中にある。
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