第2バチカン公会議の平和メッセージ

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 第2バチカン公会議の平和メッセージ

第2バチカン公会議の平和メッセージ

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/06/10/ 00:00]

人類に対する第2バチカン公会議のメッセージの最後は「平和のメッセージ」である。神がキリストを通して明らかにした人類への愛と救いの福音は、すなわち「平和の福音」であり、これを宣べ伝えることが教会の本質的な使命だからである。

これまで数回にわたって第2バチカン公会議の現代世界に対するメッセージを取り上げてきたが、その最後のメッセージは世界平和についてである。すなわち現代世界憲章第2部が「緊急課題」として取り上げた「結婚と家庭」、「文化」、「経済」、「政治」の後、最後に世界平和の問題を取り上げ、平和の基本は心の平和、すなわち、神が定めた「倫理的秩序」の回復以外にはありえないことを示したのである。

云うまでもなく公会議は戦争の回避と世界平和の実現に向けた人々の努力を否定することはなかった。20世紀前半に人類が味わった二度にわたる世界大戦の惨禍に鑑みて戦争を否定し、世界平和の実現に向けて人類はあらゆる手段に訴え、実にさまざまな努力を重ねてきたことを公会議は理解し、また高く評価もした。しかし、それらの人間的な努力だけで世界平和が確立は不可能であることも承知していたのである。

そればかりではない。公会議は、化学兵器の開発とテロなどの新しい複雑極まりない戦争形態の出現以来、戦争の危険は一層高まっているとも述べているのである。「戦争においてはあらゆる種類の科学兵器が用いられるので、戦争の激烈さは戦闘員を過去の時代をはるかに超える残虐さに導くおそれがある。現代の複雑な状況と複雑な国際関係は、陰険な新しいかく乱戦法によるゲリラ戦の長期化を許している。多くの場合、テロ行為があたかも戦争の新形式のように考えられている」(現代世界憲章79)。50年前のこの公会議のことばは今もそのまま通用する。

さて、公会議は「平和の本質」について次のように述べる。「平和は単なる戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持することだけでもなく、独裁的な支配から生じるものでもない。平和を正義のわざと定義することは正しい。平和とは、人間社会の創立者である神によって、社会の中に刻み込まれ、常により完全な正義を求めて人間が実現しなければならない秩序の実りである。事実、人類の共通善は、基本的には永遠の法則によって支配されるが、共通善が具体的に要求する事柄は、時の経過とともに絶えず変動する。平和は永久に獲得されたものではなく、絶えず建設すべきものである」(同78)。

憲章はさらに続ける。「しかし、それだけで十分ではない。個人の善が安全に確保され、人々が精神と才能の富を信頼をもって互いに自発的に交流し合わなければ、地上に平和は獲得できない。他人と他国民および彼らの品位とを尊重する確固たる意志、また兄弟愛の努力と実践は、平和の建設のために絶対必要である。こうして平和は愛の実りでもある。愛は正義がもたらすものを超える」(同上)。

真の平和は、一人ひとりの超越的な人格の尊厳とその基本的人権を擁護し、互いの正義、互いの共通善を守るためには、自分の損得を超えて相手に尽くす愛がなければ実現することはできないというのである。そのような愛は、原罪に傷ついた人間の力を超えるものであり、その愛がキリストによってもたらされたことを知る公会議は言う。

「隣人に対する愛から生まれる地上の平和は、父なる神から来るキリストの平和の映像であり結果である。受肉した神の子は平和の君であり、自分の十字架によってすべての人を神と和解させ、一つの民、一つのからだの内にすべての人の一致を再建し、自分の肉において憎しみを殺し、復活によって高く上げられ、愛の霊を人々の心に注いだ」(同上)。

これが、はじめに述べた教会の人類への平和のメッセージである。つまり、真の平和は、ローマの平和(Pax Romana)でもなければアメリカの平和(Pax Americana)でもなく、実に「キリストの平和」(Pax Christi)なのである。

だから霊的使命のために派遣された教会は、憲法9条ではなく「キリストの平和」を宣べ伝える。正義と秩序を基調とした国際平和を希求して戦争を放棄する9条は一見キリスト教的であるが、日米安保条約とセットになった9条は、世間の常識ではあっても、もはやキリスト教的とはいえないのではないか。沖縄をはじめ全国各地に米軍基地と兵員を擁し、アメリカの核の傘に守られ、アメリカの戦争に巨額の軍資金を提供し、自衛隊を派遣して後方支援を行う現実は、稲垣良典氏の言う、戦争を前提とする「戦争の論理」であって、正義と愛に基づく相互信頼の「平和の論理」ではない(憲章解説参照)。教会が目指すのはあくまで「平和の論理」である。だから、「平和は、単に戦争の不在でもなければ、敵対する力の均衡を保持するだけでもない。平和は正義の業であり、愛の実りである」という公会議の言葉は、文字通り、重く受け止めなければならないと思う。