無神論に対するキリスト者の挑戦

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > 無神論に対するキリスト者の挑戦

無神論に対するキリスト者の挑戦

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/06/25/ 00:00]

「無神論は現代の最も重大な課題の一つに数えられる」(現代世界憲章19)と第2バチカン公会議は言明した。この問題について、公会議教父の間では激しい議論が交わされたという。今回はその無神論とこれに立ち向かう教会の姿勢を見てみよう。

無神論の問題は現代世界憲章第一部第一章「人格の尊厳」の中で取り扱われている。無神論の問題が憲章第二部の現代の「緊急課題」の中ではなく、人格の尊厳の問題の中で扱われたということは、神と人間とが緊密な関係にあるからに他ならない。だからまず、公会議の問題提起を見てみよう。
「人間の尊厳の最も崇高な理由は、人間が神と交わるように召命を受けているということである。人間はすでにその存在の初めから、神との対話に招かれている。事実、人間が存在するのは愛によって神から造られ、愛によって神から常に支えられているからであって、神の愛を自由をもって認めて創造主に身を託するのでなければ、人間は真理に基づいて充実して生きていることにはならない。しかし、現代人の多くは神とのこのような生命的な深い結びつきを全く理解しないか、あるいは明らかに排除する。したがって無神論は現代の最も重大な課題の一つに数えられるべきである」(現代世界憲章19)。

では無神論とは何か。公会議は、無神論は極めて多様な形をとることを指摘する。すなわち、通常見られるのは実践的な唯物論の形で、現世的な事柄だけを追求する。たとえば、無神論的ヒューマニズムは、人間は「自己目的で、歴史の唯一の製作者、創作者」(現代世界憲章20)であるという誤った考え方を持っている。現代に見られるもう一つの無神論の形は、人間の解放を経済的・社会的開放に期待し、「宗教は死後の偽りの生命への希望を抱かせることによって、人間を地上の国の建設からわき道にそらせるものなので、本質的に人間解放を妨げるものである」(同上)と考えている。

そこで公会議は、無神論は神の存在を認めなかったり拒否したりするものなので、敬神徳に反する罪である、と厳しく糾弾する(ローマ1,18参照)。ただし、この罪の責任は、意向や状況などによってかなり軽くなることがあると言って、無神論者(人間)に対してはキリスト教的愛の姿勢を貫いた。そのうえ、無神論を助長した教会側の責任について反省することも忘れなかった。そして言う。「その中には、諸宗教に対する、そしてある地域においては特にキリスト教に対する批判的反動も含まれている。したがって、信仰者が無神論の発展に小さくない役割を演じていることもありうる。すなわち、信仰者が信仰についての教養を怠り、教理を間違って解説し、なお宗教的、道徳的、社会生活において欠けるところがあるとき、神と宗教の真の姿を示すよりは、かえって隠すのである」(憲章19)。

他方、無神論の中には、しばしば、神に対するあらゆる依存を拒否させるほどの、人間の自律性に関する間違った考えに基づいたものも見受けられる。しかし、神を認めることは決して人間の尊厳に反するものではないと、次のように公会議は言う。「人間の尊厳は神自身の中に基礎を持ち、また、神において完成されるものだからである。すなわち、人間は創造主である神によって知性を持つ自由な社会的存在として造られたのであり、しかも神の子どもとして神との交わりと神の幸福にあずかるよう呼ばれているからである」(同21)。

そこで、公会議は無神論への対策として次の二点を強調している。「無神論の対策としては、教会の教えを正しく述べることと、教会およびメンバーの生活を純粋にすることに求めるべきである」(同21)。

最後に、人間の秘義は人となった神の子キリストの秘義の中に示されると、次のように言う。「実際、人間の秘義は肉となられたみ言葉の秘義においてでなければ明らかにはならない。事実、最初の人間アダムは未来の人間すなわち主キリストの予型であった。最後のアダムであるキリストは、父とその愛の秘義を啓示することによって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(同22)。

多くの人が神を見失い、現世に執着して生きている現代無神論社会において、信仰者の務めは、キリストに対する信仰を正しく深めて、本物の、そして熱心な「キリストの証人」となることであろう。「あなた方は聖霊を受けて、地の果てまでわたしの証人となれ」(使徒行録1,9参照)と主は弟子たちに言われたのである。そういう意味で、キリスト者の生活は無神論に対する一種の挑戦でもある。



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