プライバシーという名の個人主義

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プライバシーという名の個人主義

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/07/25/ 00:00]

先々月30日付の朝日新聞“耕論”欄に『孤立死に向き合う』という記事があった。「誰だかわからず、誰にも気づかれずに亡くなる人が後を絶たない。なぜ?と思うけど、それは他人事だろうか」と問題提起をしていた。

執筆者の一人、田中大輔さん(東京都中野区長)は書いている。「毎年9月、敬老の日に合わせて100歳以上の方の自宅を訪問し、お祝いをさせてもらっています。あるとき、担当者から「対象は158軒。そのうち26人が独り暮らしです」と聞いて驚きました。100歳以上で? すごい数だなあ」と。区内の70歳以上では、いま、約3割が独り暮らしです。行政がその生活実態をすべて把握するのは無理ですよ。やはり地域の中で高齢者を見守っていただき、行政が支えるというのが基本だと思います」

田中さんは続いて書いている。「ところが個人情報保護法ができてから、町会や自治会は住民の名簿を創りにくくなっています。どういう人がどこに住んでいるのかわからない、ということが起こる」と。ここにいう個人情報保護法とは、「積極的プライバシー権」を保証するものとして2003年5月23日に成立し、2005年4月1日から全面施行された法律である。同法は、データベース上の個人情報(個人データ)の管理についても規定している。目的は、「個人の権利利益を保証すること」である。ところが、いわば個人を守るための法律が個人を守るための障害になっているというのであるから不思議である。どうしてそうなるのか、答えは簡単であろう。プライバシーを守ることが個人主義の隠れ蓑になり、人々の愛と連帯をさえぎる壁となっているのである。

もともと原罪に傷ついた人間はその内面に矛盾を抱えている。「人間は自己の中で分裂している」と、第2バチカン公会議は言う。「人間は神によって義の中におかれたのであるが、悪霊に誘われて、歴史の初めから、自由を乱用し、神に対立するものとなり、自分の完成を神のほかに求めた。神を認識したにもかかわらず、神の栄光を帰することをしなかった。人間の心は曇って無知となり、人々は創造主よりも被造物に仕えた。神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致する。すなわち、人間は自分の内心を振り返ってみれば、自分が悪に傾いており、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見する。それらの悪が、人間を創った善なる神から来ることはできない。人間はしばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、また自分の究極目的への当然の秩序ならびに自分自身と他人と全被造物とに対する調和を乱した」(現代世界憲章13)。

それにつけてもキリストの言葉が思い出される。山上の説教で主は言われる。「人はだれも二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他を愛するか、または一方に親しみ、他を疎んじるか、どちらかである。あなたがたは神とマンモンとに兼ね仕えることはできない」(マタイ6,24)。マンモンとは「富」のことであり、それはお金によって代表される被造物を意味する。

伝統的な罪の定義に、「罪とは、神から離れて被造物に執着すること」がある。神に反逆して物質につくとき、人間の共同体は破壊されてばらばらとなり、個人主義が人間を支配する。しかし、人間が神に立ち返り、そのルールに従えば、人間共同体は回復され、すべてを分かち合って一つになり、平和と希望のうちに生きることができる。

戦後、わが国は全体主義から解放されて民主主義の国になった。しかし、民主主義の真価は、何を信じてこれに仕えるかという、人間の心の「神に仕えるかマンモンに仕えるか」の二者択一にかかっている。戦後、廃墟の中ら立ち上がった日本は経済第一主義を指標としたために、不幸にして、多くの人びとがマンモンに仕えることとなった。こうして、個人主義、それが高じて利己主義がまかり通り、無縁社会、孤立社会を生んでしまった。

さらに、「サッチャーやレーガンによる個人主義を前提とする新自由主義の時代」に入り、「本当なら人間が生きるための生産であり、生産のための金融であるはずなのに、いまは逆に金融が生産を支配し、経済が人間を支配する」時代になったと識者は言う。弱肉強食の厳しい個人主義的な富の奪い合いが促進されて所得格差は広がり、共同体が崩れて人間の孤立化はその極に達した。年間3万人を超す自殺者も、孤立死の増加も、その結果であろう。

今その反動として、あらためて人間共同体づくりが、さまざまな形で始まっている。しかし、こうした善意の試みが定着し広がるためには、やはり、「散らばっている神の子らを一つに集めるために」(ヨハネ13,51)来られたキリストの正義と愛、すなわち人格の尊厳とその基本的権利を擁護し推進する「正義」と、一切の違いを超えて人々を一つん結ぶ「隣人愛」が必要である。われわれは、この正義と愛をもって、すべての善意の人々とともに、家庭のコンミュニティ、地域のコンミュニティを構築したいと望んでいる。