世界平和は一人ひとりの心に始まる
カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/08/10/ 00:00]
今年も世界平和について考える季節がやってきた。平和といえば、いきなり国際平和や戦争自体を考えがちだが、平和は一人ひとりの心に始まる。心の平和という基礎の上に世界平和を築くことも忘れてはならない。
やはりこの小論は回勅『地上の平和』の冒頭の言葉から始めよう。「あらゆる時代の人びとが切望してやまない地上の平和は、神の定めた秩序を全面的に尊重してはじめて、これを築き、固めることができる」(ヨハネ23世回勅『地上の平和』緒言)。
この有名な回勅は、第2バチカン公会議が始まった1962年の翌年、すなわち1963年4月11日に公布された。ヨハネ23世は、その2カ月後、すなわち1963年6月3日、82歳の生涯を閉じたから、回勅は彼の遺言ともなった。あれから49年経つが、回勅の上記の言葉は古びることなく、今日も燦然と輝いている。それは永遠の真理だからである。
回勅は、上記の言葉のすぐ後に、神が定めた二つの秩序について語る。自然界の秩序と人間の心の秩序の二つである。まず、自然界の秩序にいついて。
「科学の進歩と技術の発明とは、生物のうちにも、自然の力のうちにも、見事な秩序が支配していることを立証しているが、そればかりでなく、この秩序を発見し、この力をとらえてこれを利用する手段をつくることのできる人間の偉大さをも、立証している(同上)。
先日、「ヒッグス粒子 発見か」というニュースが流れた。素粒子の世界を説明する「標準理論」にひと区切りがついた歴史的な意義があると専門家が言う大発見のようだが、専門外のわたしにはよくわからない。だが、科学的な発見は新たな謎を生む。ただ、回勅の次の言葉を忘れてはならない。
「しかし、科学の進歩と技術の発明とが、まず第一に示すものは、宇宙と人間自身との創造主である神の限りない偉大さである。神は、その英知と仁慈とを惜しげもなくつぎ込んで、宇宙を創造した」(同上)つまり、自然界の秩序も人間の偉大さも、神の創造になるものであって、神の業に対する賛美と感謝を捧げなければならないことを教えている。
ところで、世界平和のもとになる「秩序」は、もう一つの、人間の心の秩序であると、回勅は述べる・「しかしながら、世界の創造主は、人間のもっとも奥深いところに、秩序を刻みつけている。良心が人々に示し、かつ尊重するよう命ずる秩序がこれである。『彼らは律法の要求する事柄がその心に記されていることを示し、彼らの良心もこれを証している』(ローマ2,15)」(同上)。そのうえで、「人間の関係を律する法は、神がそれを刻みつけたところ、すなわち、人間の本性の中に、これを求めなければならない」(同上)と述べて、世界平和の基準は、良心の声が示す、人間本性の中にあると言明する。
周知の通り、世界各地に広がっている人類は、それぞれ異なった民族や国や文化に分散しており、その個性も各人各様である。しかし、みな同じ人間であり、同じ本性(本質)を備えており、同じ良心の声を聞いている。この唯一・普遍の本性に立ち帰らない限り、世界平和など望むべくもないということである。ところが、その心の秩序が乱れていると回勅は指摘する。「この宇宙の感嘆すべき秩序に対して、痛ましいまでに対照的なのは、人間同志および民族相互間の無秩序であって、その相互関係を律しうるものは力以外にないかのようである」(同上)。
なぜ人間の良心は曇り、心の秩序は乱れているのか。聖書の教えにしたがえば、それは人間の罪、すなわち原罪によって弱められた人間の理性のせいであり、さらに数々の悪い感情や欲望、悪い習慣やイデオロギーなどによって良心の声がゆがめられているからである。神は、モーセの十戒によって良心を照らし、キリストの啓示と模範により、特に愛のおきてによって十戒を完成されて、心の秩序を回復してくださった。この、あがなわれ、回復された「良心の平和」こそ、「キリストの平和」なのである。
したがって、人間は各々、神に立ち返り、その声を聞いて良心のおきてを確かめ、まずは自分の心の秩序と平和を取り戻すことが第一である。その上で、家族をはじめ、隣人たちとの人間関係を良心に基づいて正し、これをそれぞれの国から世界へと広げていかなければならない。そうすれば、平和への道は近くはないけれど、確実に世界平和につながるであろう。
要するに、世界平和は、一人ひとりの心の平和に始まるのである。