いじめをなくするために何が必要か

糸永真一司教のカトリック時評 > カトリック時評 > いじめをなくするために何が必要か

いじめをなくするために何が必要か

カテゴリー カトリック時評 公開 [2012/08/25/ 00:00]

大津の中学生の自殺とその原因とみられるいじめの問題が、その原因や事後処理の追求で様々な議論が繰り広げられたが、いじめや自殺の真の原因究明には程遠い気がする。いじめや自殺の歯止めは何なのか、あらためて考えてみよう。

この問題については、ひところ、テレビや新聞、そして雑誌などで、実に長々と、また異常なほどに繰り返し論じられた。当然かどうか分からないが、文部科学大臣まで乗り出してくる始末だ。それらの論調には耳を傾けるべき点も多かったが、しかし、平凡で下らない議論も少なくなかった。中に、次のような理解しがたい主張があった。

「いじめそのものは昔から、日本だけではなく、世界中で、閉鎖的な環境の中では生じているのです。ですから、モラルに訴えて解決しようとしたり、あるいはゼロにしようとしても、あまり意味が無いと私は考えています。いじめは存在するということを前提に、ルールと、第三者が介入する仕組みを作り、そのうえでスキルトレーニングをする必要があると強く考えます」(『勝間和代のクロストーク』毎日新聞7月18日くらしナビ欄)。

いくらマスコミの売れっ子だからって、その言うことがいつも真実であるとは限らない。欧米に劣らず自由を謳歌するわが国においては、問題が起きれば、欧米とは違って、自主規制よりは外部からの規制を加えようとする不思議な傾向がある。いじめや自殺問題においても然り。勝間氏の上記の主張にもそれが如実に表れている。しかし、それは、知恵と自由を備えた独立主体としての人間性、人間の本質を無視した議論ではあるまいか。モラルとは、外部規制によらず、自らの良心の判断に従って自主的に生きる人間本来の生き方そのものであって、人間の意識的な行為でモラルに属さないものは一つもない。人間の生き方そのものがモラルである。だから、モラルの否定は人間性の否定につながる。世に言うスキルトレーニングとは「犬の訓練」と同じで、人間性の否定に他ならない。

人間はその本質ゆえに、人間本性そのものの中に人間らしく生きるための法が刻印されている。少々長いが、第2バチカン公会議の言葉を紹介しよう。

「人間は良心の奥底に法を見いだす。この法は人間がみずからに課したものではなく、人間が従わなければならないものである。この法の声は、常に善を愛して行い、悪を避けるよう勧め、必要に際しては「これを行え、あれを避けよ」と心の耳に告げる。人間は心の中に神から刻まれた法をもっており、それに従うことが人間の尊厳なのであり、また人間はそれによって裁かれるのである」(現代世界憲章16)。

公会議のこの宣言は、聖パウロのローマ人への手紙第2章15節に由来する教えであって、そこには、キリスト者ばかりでなく、すべての人間に良心の法があることを強調しているのである。つまり、神を信じる、信じないにかかわらず、すべての人間が心の中に道徳的な法をもち、その法の声、すなわち良心の声に従うことによってその自由を成長させ、人間性を完成するのである。

しかし、経験によれば、残念ながら人間の良心はいつも健全で明白であるわけではない。間違った良心もあり、迷った良心もある。特に現代のような、複雑な仕組みが交錯し、多様な価値観が渦巻く世界にあっては、明確な良心をもつには厳しい教育の力を必要としている。人間の良心は教育によって正しく形成されなければならないのである。繰り返される小中学生のいじめの問題は、まさにそのことを明白に示している。つまり、正しい良心の形成によって健全なモラルを確立することが、いじめを防止するための根本的な方策でなければならない。

健全な良心の形成のための教育は、家庭と学校において行われる。まず家庭は、社会的徳性を育てる第一の学校であると言われる通り、両親の模範としつけによって対人関係を律する「社会性」を身につけさせなければならない。だから、子供のいじめ問題においては、その両親の責任がまず問われなければならない。

良心を形成するもう一つの教育の場は学校である。発達年齢に応じながらも、人のいのちの尊厳を認めかつ擁護し、弱肉強食ではなく、互いの不足を補い合う「真理と正義、愛と自由」に基づく平和な人間共同体を育成する人間の務めが明確かつ強力に教えられなければならないのである。

不幸にしていじめやそれに伴う自殺事件などが起こった場合には、以上のようなモラル(道徳)の再認識と良心形成の問題が優先課題になる。もっとも、子供たちがすべて良心の声にいつも忠実でるとは限らないが、しかし,良心による内部規制こそが、自由な人間に最もふさわしい生活のルールであり、子供たちを含めてすべての人間が常に良心の声に、人間を超えた権威を感じて、必ず規制される。外部からの規制は社会秩序を守るための最後の手段に過ぎない。